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ヴァルボ(Valbo)に生まれた。父親は事務員であった。1743年に[[聖職者]]になろうとして[[ウプサラ大学]]に入学するが、[[カール・フォン・リンネ]]に指導を受けて、植物学に転じた。リンネに好かれて、[[カール・フォン・リンネ (子)|リンネの息子]]の[[家庭教師]]を務めた。1749年に学位を得た。
 
1751年にスペイン王、[[フェルナンド6世 (スペイン王)|フェルナンド6世]]が[[イベリア半島]]の植物の研究のためにリンネを招いた時に、同行し1751年から1753年にかけて何回か植物採集旅行を行い、多くの[[薬草]]や[[種子]]を集めてウプサラ大学に送ったがこの仕事は完成しなかった。この間に[[スペイン語]]も学んだ。[[南アメリカ|南米]]への調査旅行に備えて、[[大西洋]]岸の都市、[[エル・プエルト・デ・サンタ・マリーア]]で1月半すごし、その間、[[漁師]]と協力してスペインの[[魚類]]の[[博物誌]]を作った。
1754年、現在のベネズエラ地域の[[オリノコ川]]流域の探検旅行に加わった。2人の[[医師]]と2人の[[画家]]を伴った。18世紀最初の科学目的の南米探検であった。この旅行で多くの植物・動物[[標本]]が集められ、そのいくつかは[[スペイン王立植物園]](Real Jardín Botánico de Madrid)で公開されている<ref>Pelayo López Francisco, red (1990) (på spa). Pehr Löfling y la expedición al Orinoco, 1754-1761: Pabellón Villanueva, Real Jardín Botánico, octubre-noviembre 1990. Colección Encuentros. Serie Catálogos. Madrid: CSIC. Libris 7506000. ISBN 84-7506-320-9</ref>。2年後、ベネズエラのサン・アントーニオ・デ・カロニー(San Antonio de Caroní)で27歳で病没した。