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|選手名 = 宮出 隆自
|所属球団 = 東京ヤクルトスワローズ
|役職        = コーチ
|背番号 = 76
|選手写真ファイル名 = Miyade ryuji.jpg
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|初出場 = 1998年4月5日
|最終出場 = 2012年10月7日
|年俸経歴 = 1,100万円(2012年)
|経歴 = <nowiki></nowiki>
* [[愛媛県立宇和島東高等学校]]
* [[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ<br />東京ヤクルトスワローズ]] (1996 - 2009)
* [[東北楽天ゴールデンイーグルス]] (2009 - 2010)
* 東京ヤクルトスワローズ (2011 - 2012)
|経歴補足題 = コーチ歴
|経歴 補足 = <nowiki></nowiki>
* 東京ヤクルトスワローズ (2013 - )
}}
'''宮出 隆自'''(みやで りゅうじ、[[1977年]][[8月18日]] - )は、[[愛媛県]][[宇和島市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]])。
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{{by|1994年}}の[[第76回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]では[[一塁手]]として出場。チームは惜しくも敗れたが、3打数1安打1打点と結果を残している。公式戦のみで、高校通算34本塁打の強打を誇った。
 
{{by|1995年}}の[[1995年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1995年のドラフト会議]]で[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]から2位指名で交渉権受け、[[投手]]と獲得契約金7000万円、年俸600万円(金額は推定)で入団合意した<ref>『朝日新聞』1995年11月29日付朝刊 (14版、29面)</ref>
 
=== 第一次ヤクルト時代プロ入り後 ===
プロ3年目の{{by|1998年}}4月22日対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で一軍初先発し、5回を自責点2に抑えて初勝利を挙げたこの試合で{{by|1999年}}に9つ中継ぎを中心に谷間四球先発も任され、2勝挙げた。{{by|2000年}}には3勝を挙げる。{{by|2001年}}はセットアッパーとして制球力の期待され、開幕戦課題を残も登板したが、初回4月半ば自身によるレフトオーバータイムリーツーベース半月板含む13点の大量援護を貰損傷し、手術に踏み切た。元々投手としおり、は故障がちであったなきや、手術後投球行うと膝に水が溜まるようになっだ本人も翌め、{{by|2002以降見}}かれた、ピンチ外野手強いと転向する。ろを早くの際、[[三塁手|三塁]]や一塁など、内野の練習に見せて取り組んでいるが、余りの酷さに内野失格を言い渡されてしまった
 
{{by|2002年}}の一軍出場はなかったが、{{by|2003年}}は一軍の準レギュラーとして60試合に出場し、打率.277、5本塁打を記録。打者としての実力の片鱗を見せた。同年5月25日の地元[[松山中央公園野球場|松山]]での凱旋試合で[[阪神タイガース|阪神]]の[[藤川球児]]から一軍初本塁打を放っている。{{by|2005年}}は後半戦から5番打者として[[クリーンナップ]]の一端を担う。[[規定打席]]には達しなかったが、打率.320、8本塁打、46打点の好成績を残した
{{by|1999年}}には中継ぎを中心に谷間の先発も任され、2勝を挙げた。{{by|2000年}}には3勝を挙げる。
 
{{by|2001年}}はセットアッパーとしての期待され、開幕戦にも登板。しかし4月半ばに膝の半月板を損傷し、手術に踏み切った。元々投手としては故障がちであった事や、手術後投球を行うと膝に水が溜まるようになったため、{{by|2002年}}から外野手に転向する。この際、[[三塁手|三塁]]や一塁など、内野の練習にも取り組んでいるが、余りの酷さに内野失格を言い渡されてしまった。
 
投手でありながら、一軍で打席が回ってきた際は安打を放っている。投手時代は計17打数7安打(打率.412)と高打率を残した。また、ファームでは本塁打も2本記録している。
 
{{by|2002年}}の一軍出場はなかったが、{{by|2003年}}は一軍の準レギュラーとして60試合に出場し、打率.277、5本塁打を記録。打者としての実力の片鱗を見せた。同年5月25日の地元[[松山中央公園野球場|松山]]での凱旋試合で[[阪神タイガース|阪神]]の[[藤川球児]]から一軍初本塁打を放っている。
 
翌{{by|2004年}}は低迷するものの、{{by|2005年}}は後半戦から5番打者として[[クリーンナップ]]の一端を担う。[[規定打席]]には達しなかったが、打率.320、8本塁打、46打点の好成績を残した。
 
{{by|2006年}}はチーム有数の[[クラッチヒッター]]として[[右翼手|右翼]]のレギュラーを奪取。134試合に出場し、初の規定打席に到達して打率.275と活躍した。確実性に苦しんだものの、最終的には自己最多の9本塁打59打点をマークした。8月30日は宮出隆自Dayとして球団のキャンペーンの対象となった。この日の試合では8号本塁打を放つ活躍を見せ、チームも勝利した。
 
{{by|2007年}}は高校の後輩でもある[[岩村明憲]]のメジャー挑戦で三塁手が空席になったため、外野手から三塁手への[[コンバート (野球)|コンバート]]が予定された。春季キャンプの阪神が守備率は.875の練習試合チーム最下位、三塁手のレギュラー2回[[飯原誉士]]に奪われた。以後は一塁手としての出場が増え、長身も生かしてまずまずの守備機会で2回ともエを見せ新たなレギュラーポジション掴んだ。同年は一塁68試合、三塁18試合、外野13試合を守った。主に5・6番打者としてしまい阪神111試合で打率.279、前年と同じ9本塁打を記録するなど活躍を見せたが、9月17日の対中日戦で[[岡田彰布山井大介]]監督から「岩村はセ・リーグ一投球を右手に受け骨折し、残りのシドやったから気が楽や」と言われてズンを欠場まった。
 
宮出はこの悔しさをバネにこの後も特守に励んだが成果は思わしくなく、三塁手としての守備率は.875とチーム最下位で、三塁手のレギュラーは[[飯原誉士]]に奪われた。以後は折しも[[アダム・リグス]]が離脱した事で一塁手としての出場が増え、長身も生かしてまずまずの守備を見せ新たなレギュラーポジションを掴んだ。同年は一塁68試合、三塁18試合、外野13試合を守った。主に5・6番打者として、111試合で打率.279、前年と同じ9本塁打を記録するなどの活躍を見せたが、9月17日の対中日戦で[[山井大介]]の投球を右手に受け骨折。残りのシーズンを棒に振った。
 
{{by|2008年}}は、一塁には[[畠山和洋]]が固定、右翼には[[福地寿樹]]が固定され、本人の不振もあり、出場機会数が激減。野手転向後では最も悪い成績になってしまった。
 
{{by|2009年}}、開幕直前の3月23日、[[一場靖弘]]<ref>2011年からチームメイトとなる。</ref>との[[トレード|交換トレード]]で[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]へ移籍。背番号は'''9'''。
 
=== 楽天時代 ===
前半は打率は1割台と調子が悪く登録と抹消を繰り返したが、7月14日の対[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦に代打で出場し、2007年9月5日対[[広島東洋カープ|広島]]戦以来となる2年ぶりの本塁打を[[三井浩二]]から放つ。これが決勝点となり、移籍後初のヒーローインタビューを受ける。この頃を境に調子を上げ、[[中島俊哉]]の故障の影響もありスタメンでの出場機会が増えた。ファーストやライトの[[守備固め]]としても25試合で起用された。最終的に打率は3割を超え、対左投手の打率は.340と結果を残し、盗塁も5個記録し、失敗は0だった。
 
{{by|2009年}}3月23日に[[一場靖弘]]との[[トレード|交換トレード]]で[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]へ移籍。前半は打率は1割台と調子が悪く登録と抹消を繰り返したが、7月14日の対[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦に代打で出場し、2007年9月5日対[[広島東洋カープ|広島]]戦以来となる2年ぶりの本塁打を[[三井浩二]]から放つ。これが決勝点となり、移籍後初のヒーローインタビューを受ける。この頃を境に調子を上げ、[[中島俊哉]]の故障の影響もありスタメンでの出場機会が増えた。ファーストやライトの[[守備固め]]としても25試合で起用された。最終的に打率は3割を超え、対左投手の打率は.340と結果を残し、盗塁も5個記録し、失敗は0だった。
{{by|2010年}}は若手選手の台頭と自身の成績急落(打率が昨年の半分まで落ちてしまった)により、出場機会が激減して34試合の出場に留まった。シーズン終了後の10月、一時はチームの秋季キャンプに参加したが、同27日に[[戦力外通告]]を受けた。
 
{{by|2010年}}は若手選手の台頭と自身の成績急落(打率が昨年の半分まで落ちてしまった)により、出場機会が激減して34試合の出場に留まった。シーズン終了後の10月、一時はチームの秋季キャンプに参加したが、同27日に[[戦力外通告]]を受けた。11月10日に古巣ヤクルトが宮出獲得を発表し<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/red_mpl/topicsView2.cgi?TYPE=t&SEQ=13131 濱中選手と宮出選手の獲得について]</ref>、3シーズンぶりにスワローズ復帰となった。{{by|2011年}}は28試合のみに出場しただけで、打率は.300だったが本塁打0、打点3だった。
=== 第二次ヤクルト時代 ===
[[11月10日]]に古巣ヤクルトが宮出獲得を発表し<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/red_mpl/topicsView2.cgi?TYPE=t&SEQ=13131 濱中選手と宮出選手の獲得について]</ref>、3シーズンぶりにスワローズ復帰となった。背番号はヤクルト在籍時の'''43'''は一場が着けているため'''49'''となった。
[[2011年]]は、復活が期待されたものの、28試合のみに出場しただけで、打率は.300だったが本塁打0、打点3だった。
 
[[{{by|2012年]]、}}10月6日にこの年限りでの現役引退を発表し<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=15282 宮出選手が現役引退を表明、ファンの皆様、関係者の皆様へ]ヤクルト球団公式サイト</ref>、10月7日のシーズン最終戦となる対広島戦(神宮)で途中出場し、セカンドフライに打ち取られている<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20121007.html 10月07日(日)東京ヤクルトスワローズ-広島東洋カープ]ヤクルト球団公式サイト</ref>。[[11月1日]]、付で任意引退選手公示された<ref>{{Cite web |date=2012-10-30 |url=http://www.npb.or.jp/players/2012pn_retired.html |title=2012年度 任意引退選手 |publisher=日本プロ野球機構 |accessdate=2012-10-30}}</ref>。
 
=== 引退後 ===
[[{{by|2013年]]}}よりヤクルトの二軍打撃コーチに就任するした<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=15332 2013年のコーチングスタッフについて]2012年10月22日 東京ヤクルトスワローズ公式サイト</ref>。
 
== プレースタイル ==
{{スポーツ選手の出典明記|プレースタイル|section=1|date=2012年11月}}
=== 投球 ===
190cm(実際は192cmとも)の長身から投げ下ろす140km/h台半ばの速球や、[[フォークボール]]を武器に台頭。他に見せ球としての[[カーブ (球種)|カーブ]]も投じていた。
 
=== 打撃 ===
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== 人物 ==
{{スポーツ選手の出典明記|人物像|date=2012年11月|section=1}}
既婚で、2人の子を持つ。
 
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|701||1813||1655||171||458||72||12||39||671||216||15||6||23||8||114||2||13||335||38||.277||.327||.405||.732
|}
* 2012年度シーズン終了時
 
=== 記録 ===
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* '''49''' (2011年 - 2012年)
* '''76''' (2013年 - )
 
=== 登場曲 ===
* 『Low』 [[Flo Rida]](2009年)
* 『[[ナム|Numb]]』[[LINKIN PARK]](2010年 - )
 
== 脚注 ==
{{reflistReflist}}
 
== 関連項目 ==
206 ⟶ 186行目:
* [[東京ヤクルトスワローズの選手一覧]]
* [[東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧]]
 
== 外部リンク ==
* [http://bis.npb.or.jp/players/31233882.html 個人年度別成績 宮出隆自]
 
{{東京ヤクルトスワローズ}}
{{ヤクルトスワローズ1995年ドラフト指名選手}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:みやて りゆうし}}
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手]]
[[Category:東北楽天ゴールデンイーグルスの選手]]
[[Category:野球指導者]]
[[Category:愛媛県出身の人物]]
[[Category:1977年生]]