「高志内親王」の版間の差分

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桓武天皇にとって、皇后所生の唯一の皇女であり、桓武天皇鍾愛の皇女といわれる。延暦23年1月5日([[804年]])三品。異母兄大伴親王(のちの[[淳和天皇]])の妃となり、延暦24年([[805年]])第一皇子[[恒世親王]]を産む。他に[[氏子内親王]](斎宮)、有子内親王、貞子内親王の3皇女をもうけた。大同4年([[809年]])、21歳で薨去。のちに弘仁14年([[823年]])、淳和天皇の即位に伴い、皇后を追贈された。
 
所生の[[恒世親王]]は、両親とも桓武天皇の皇子であり、血筋の上では有力な皇太子候補であった。しかし、父淳和天皇は自身の皇太子として嵯峨天皇皇子の正良親王([[仁明天皇]])をたてた。恒世親王は父淳和天皇在位中の天長3年([[826年]])に薨去し、皇位継承にかかわることはなかった。高志内親王の死後[[嵯峨天皇]]皇女[[正子内親王 (嵯峨天皇皇女)|正子内親王]]が淳和天皇皇后となって[[恒貞親王]]などの皇子をもうけたことで生母のいない恒世親王が皇太子となることはなかった。一方、正子内親王所生の[[恒貞親王]]は[[仁明天皇]]の皇太子にたてられたが、[[承和の変]]により廃太子となった。
 
== 参考文献 ==