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紀氏の歴史は気が遠くなるほど古いものである。紀氏は古代から紀伊国に威武をふるっていた。『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』『[[古語拾遺]]』『[[紀伊続風土記]]』などの記録によると、[[神武天皇]]が近畿内平定ののち紀州の[[国造]](国王)に封じられた[[天道根命]]の直系子孫である。[[神話]]の時代を含めると二千年以上もの長い歳月を経た今もなお日前国懸の神に仕えている。
これほどの古い家系を今に伝えているのは、[[天皇家]]よりも遥かに古いといわれる[[出雲]]の[[出雲国造|千家・北島]]の両家とこの日前国懸両神宮の[[司祭者]]である紀家、あるいは、[[阿蘇神社]]の大[[宮司]]である[[阿蘇氏|阿蘇家]]ぐらいともいわれる。
 
紀氏は64代[[紀俊連]]のころから神領の所々に城([[太田城]]・[[秋月城]]など)を築いて外敵に備えるようになった。紀氏は[[神官]]であったが地方[[大名]]ほどの領地を有していて、周辺の[[土豪]]はその領地を狙っていた。戦国時代、67代[[紀忠雄]]の頃にはそれらの城にときおり紀氏と所領が隣接していた[[雑賀党]]が攻めてくることもあった。[[豊臣秀吉]]の紀州侵攻により日前神宮・国懸神宮両神宮の社殿はことごとく破壊され、紀氏は神領を没収された。紀忠雄は[[大納言]][[豊臣秀長|秀長]]の手によって仮殿が建てられてから再び当地に戻ってきた。その後、[[紀州藩|紀州藩主]][[徳川頼宣]]の命によって社殿が旧社地に復旧された。頼宣は[[紀忠光]]に社領四十石を与えた。以後、紀氏は日前神宮・国懸神宮の神官として今に血脈を伝えている。