「中村時蔵 (4代目)」の版間の差分

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東京生まれ。[[中村時蔵 (3代目)|三代目中村時蔵]]の次男。[[1936年]](昭和11年)11月東京歌舞伎座で二代目[[中村梅枝]]を名のってで初舞台。[[1953年]](昭和28年)4月東京歌舞伎座で六代目[[中村芝雀]]([[京屋]])を襲名。父の死後の[[1960年]](昭和35年)4月東京歌舞伎座で『[[八重桐廓噺]]』(嫗山姥)の八重桐、『[[妹背山婦女庭訓]]』(妹背山)のお三輪、『[[近江源氏先陣館]]・盛綱陣屋』の篝火で四代目[[中村時蔵]]を襲名した。
 
清楚な芸を身につけた美貌の若手女形で、叔父の[[中村勘三郎 (17代目)|十七代目中村勘三郎]]が専ら相方に起用したことから将来を嘱望された。しかし人気とともに舞台出勤が激増、今月は[[歌舞伎座]]、来月は[[南座]]、その翌月は[[新橋演舞場|演舞場]]と、休みのない公演日程が続いたことで睡眠薬への依存度が増し、結果的に[[1962年]]1月に睡眠薬事故のために急死してしまう。34歳の若さだった。<!--自殺説も流れた。--><!--事故死と確定しているので-->
 
立女形の大名跡である「中村時蔵」は四代目の死、長男四半世紀[[中村時蔵 (5代目)|三代目中村梅枝]]が[[1981年]](昭和56年)に五代目時蔵を襲名するまで19年間不在となり、さらに五代目時蔵が襲名するころには玉三郎こと、[[坂東玉三郎 (5代目)|五代目坂東玉三郎]]ブーム」のを巻き起こしていた絶頂期で、遅れをとった「中村時蔵」の[[梨園]]における地位は大きく傾くこととなった。
 
立女形の大名跡である「中村時蔵」は以後の四半世紀の間不在となり、さらに五代目時蔵が襲名するころには「[[坂東玉三郎 (5代目)|玉三郎]]ブーム」の絶頂期で、遅れをとった「中村時蔵」の[[梨園]]における地位は大きく傾くこととなった。
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叔父が[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]、[[中村勘三郎 (17代目)|十七代目中村勘三郎]]