「平禅門の乱」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Junger (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
『平左衛門尉頼綱(所謂「平頼綱」あるいは「長崎頼綱)』って何ですか?平頼綱の表記に不都合でもあるのですか?
1行目:
'''平禅門の乱'''(へいぜんもんのらん)は、[[鎌倉時代]]の[[1293年]]([[永仁]]元年)に鎌倉で起こった政変である。
 
北条[[得宗]]家執事の[[平左衛門尉頼綱]](所謂「平頼綱」あるいは「長崎頼綱)は、[[鎌倉幕府]]8代[[執権]][[北条時宗]]が死去し、その子[[北条貞時|貞時]]が9代執権となった翌年の[[1285年]]([[弘安]]8年)、政治路線で対立していた[[御家人]]の[[安達泰盛]]や泰盛派の御家人を[[霜月騒動]]で討伐した。その後しばらくは、頼綱は追加法を頻繁に出すなど手続きを重視した政治運営を行っていたが、[[1287年]]([[弘安]]10年)に、7代[[征夷大将軍|将軍]]源惟康が立親王して[[惟康親王]]となった時期に政治姿勢を一変させ、恐怖政治へと邁進した。
 
貞時は、頼綱に支えられて自らを頂点とする得宗専制体制を敷いたが、頼綱の権勢に不安を抱くようになり、ついに[[1293年]]([[永仁]]元年)、大[[地震]]の混乱に乗じて頼綱を攻撃し、鎌倉・経師ヶ谷においての頼綱邸を攻撃し、頼綱を自刃させた。
 
以後、頼綱一族ら[[御内人]]の勢力は一時後退して、貞時の専制政治が始まる。[[金沢顕時]]や[[安達氏]]など霜月騒動で没落を余儀なくされた勢力も徐々に幕府中枢に復帰した。