「ジャン・シメオン・シャルダン」の版間の差分

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[[1733年|33年]]頃からは[[風俗画]]の作品が増え始め、その大半が食卓の情景やカード遊びに興じる子供などセーヌ左岸の日常生活を主題とする。[[1735年|35年]]、妻が死去。[[1740年|40年]]に[[ヴェルサイユ宮殿|ヴェルサイユ宮]]へ参内して献上した《働き者の母》と《食前の祈り》はシャルダンの作品としては特に知られている。[[1744年|44年]]にフランソワ=マルグリト・プジェと再婚。
 
[[1752年]]以降、国王の年金を受けており、また[[1755年|55年]]からはアカデミーの会計官をつとめたほかサロンの陳列委員も任されていた。[[1757年|57年]][[ルーヴル宮殿]]にアトリエ兼住居を授かったのている。これ絵画のなかで[[歴史画]]に最高の価値が置かれていた当時風俗画家としては異例の名誉で、彼の作品の買い手や注文主の多くも、国内外の王侯貴族だった<ref>鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社、1995, p. 16 </ref>。とくに[[エカチェリーナ2世]]は、サンクト・ペテルブルクにあるアカデミーの建物のために装飾画を注文しているし、他にも風俗画を含む数点のシャルダン作品を所有していた(《芸術の寓意とその報償》など)。
 
再晩年は息子の溺死 ([[1772年]])、アカデミー会計官の解任 ([[1774年]])と不遇が続き、[[1779年]]に死去した。作品総数は201点<ref>Pierre Chardin: ''Tout l'oeuvre peint de Chardin'' (Paris; Flammarion, 1983)</ref>。