「鳥海山大物忌神社」の版間の差分

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==概要==
[[鳥海山]]頂の本社と、麓の吹浦と蕨岡の2か所の口之宮(里宮)の総称として大物忌神社と称する。出羽富士、鳥海富士とも呼ばれる[[鳥海山]]を[[神体山]]とする。鳥海山は、古代には国家の守護神として、また古代末期からは出羽国における山岳信仰の中心として現在の山形県[[庄内地方]]や[[秋田県]][[由利郡]]および[[横手盆地]]の諸地域など周辺一帯の崇敬を集め、特に近世以降は農耕神として信仰されてきたが、当社は鳥海山の[[山岳信仰]]の中心を担ってきており、[[平成]]20年([[2008年]])3月28日に神社[[境内]]が国の史跡へ指定されている。
 
==祭神==
* [[大物忌神|大物忌大神]]
::主祭神。記紀には登場しない神で、謎が多い。
::主祭神。『神祗志料』や『[[大日本国一宮記]]』では[[ウカノミタマ|倉稲魂命]]のことであるとしている。
 
* [[ウカノミタマ|倉稲魂命]]
::主祭神。『神祗志料』や『[[大日本国一宮記]]』では、主祭神である大物忌大神と[[ウカノミタマ|倉稲魂命]]のことであるとしが同一視されている。
 
* [[豊受姫命]]
 
* [[ツクヨミ|月読命]]
::吹浦口之宮で祀られている。
 
鳥海山は、古代には国家の守護神として、また古代末期からは出羽国における山岳信仰の中心として現在の山形県[[庄内地方]]や[[秋田県]][[由利郡]]および[[横手盆地]]の諸地域など周辺一帯の崇敬を集め、特に近世以降は農耕神として信仰されてきた。
 
== 歴史 ==
 
* <div id="蕨岡、矢島の嶺境の論争">'''蕨岡、矢島の嶺境の論争'''</div>
: 建替え論争に破れた矢島宗徒は、[[三宝院]]が「嶺境は行政の領分なので後日申し立てること」としたことを以って嶺境の訴訟を起こした。しかしながら嶺境問題は宗徒間のみならず[[庄内藩]]と[[矢島藩]]にとっても重大問題であることから、最後は両藩が相争う状態となって行く。[[元禄]]16年([[1703年]]) 三宝院[[鳳閣寺]]はこれまでの建替論争の経過に付帯文書を添え、さらにその顛末を述べて[[江戸幕府|幕府]][[寺社奉行|寺社奉行所]]に裁決を出願した。寺社奉行所では審理の末、事の容易ならざることを察し、嶺境は不明だが『[[日本三代実録]]』に大物忌神社が飽海郡山上にあることが明記されているので、棟札は飽海郡と書くのを妥当とし、嶺境は不問とするよう裁決を出した。この裁決に矢島宗徒は従わず、それに加え、この問題が重大な国境問題となる矢島藩が領内百姓の名を以って寺社奉行に訴え出た。ここに至り寺社奉行はこの問題を重大事と判断して[[評定所]]の審理に移した。評定所は庄内の修験百姓に答弁書提出を命じ、翌[[宝永]]元年([[1704年]])庄内修験百姓等は答弁書を提出した。これに対し矢島宗徒は吹浦宗徒の主張を利用し、大物忌神社は吹浦に[[遷宮|遷座]]しており現在の山頂社殿は由利郡に属するものであると主張、追訴した。評定所は原告被告の双方を時々呼び出し取調べに着手したが、現地を検分しないことには地形的関係が把握できず審理を進められないと判断し、現地に検使を派遣して検分と共に聞き取り調査を行った。検使は江戸へ帰ると鳥海山の模型を作り、評定所はこの模型とその他の調査結果を基に審理を行い、かつ双方の修験百姓を江戸に呼び出し吟味した。その結果、同年9月次の判決を言い渡した。
:# 『日本三代実録』の記述どおり山頂社殿を大物忌神社とし、山頂社殿の所在する場所は飽海郡とする。<ref>『鳥海山史』では、『日本三代実録』の誤読を蕨岡が強引に根拠とし、主張を行ったと述べている。すなわち『日本三代実録』貞観13年5月16日の条は「'''従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巖石壁立。'''」(従三位勳五等大物忌神社は飽海郡の山上に在り。巖石が壁立し。)ではなく「'''従三位勳五等大物忌神社在飽海郡。山上巖石壁立。'''」(従三位勳五等大物忌神社は飽海郡に在り。山上は巖石が壁立し。)が正しい読み方であり、大物忌神社は山頂を遥拝できる平地にあったので、山頂は飽海郡では無いと考察している。姉崎岩蔵 『鳥海山史』 ㈱国書刊行会 1983年12月 より。ちなみに『國史大系 第4巻 日本三代実録』では、貞観13年5月16日の条に「'''従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巖石壁立。'''」と句読点を付している。</ref>
:# 西は笙野岳腰より稲村岳の8分に亘り、東は女郎岳の腰までをもって郡境と定める。
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