「ラゴス」の版間の差分
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== 概要 ==
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[[独立]]後の人口調査は2回だけだが([[1972年]]と[[1991年]])、その人口の推計は1000万前後と思われ、[[アフリカ]]最大級の大都会である。[[2011年]]の[[世界の都市的地域の人口順位|都市的地域]]の人口では1085万人であり、世界第25位、アフリカでは[[カイロ (エジプト)|カイロ]]に次ぐ第2位と推計されている<ref>[http://www.demographia.com/db-worldua.pdf Demographia: World Urban Areas & Population Projections]</ref>。
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世界でも最も拡大の勢いの強い都会であり、人口1億を超えるナイジェリア全土から多数の人たちがよりよい雇用や教育機会を求め集まってくる。人口増加率、[[人口密度]]、そして[[失業率]]と[[犯罪]]の多さでもナイジェリア最大。位置は、北緯6度34分60秒、東経3度19分59秒。
ラゴスは本土側と、ラゴス・[[ラグーン]](潟湖)を取り囲むいくつかの島からなった近代的な都市である。「ラゴス」とは、[[ポルトガル語]]で「ラグーン」の意味である<ref name="Jiten424">『新訂増補アフリカを知る事典』、平凡社、1991年9月1日新訂増補第1刷 p.424</ref>。もともとはラゴス・ラグーンに浮かぶ島にあった「エコ (Eko)」という名の小さな村だったが、この潟湖が[[大西洋]]に面した数少ない良港の一つであったことから、ヨーロッパ人、主に[[ポルトガル]]人との[[黒人]][[奴隷貿易]]などの取引の場となった。このベニン湾一帯を指して「[[奴隷海岸]]」と称したこともある。ラグーンの連なりがラゴスから、西のバダグリと東のオグン州に伸びている。
ラゴスは[[1976年]](実質的には[[1991年]])に[[アブジャ]]に首都が移るまでナイジェリアの首都だったが、いまでも経済的・文化的な中心都市である。また[[西アフリカ]]を代表する大都市であり、[[英語]]が通じ教育水準の高い人材も多いため、多くの[[多国籍企業]]がナイジェリアを含む西アフリカの広い範囲をカバーする活動拠点をラゴスに置いている。
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== 市内の地理 ==
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;ラゴス島
:ラゴスの[[都心]]はラゴス・ラグーンに浮かぶラゴス島にある。もとのエコ村のあった島の西側は植民地都市となり、現在は国立博物館や中央モスク、教会<ref>{{cite web|url=http://www.thetransmittergroup.com/index.php?p=blog&w=a&id=1532|title=Simply Lagos|publisher=The Transmitter|accessdate=4 April 2012}}</ref>、商業施設や数多くのビルが立ち並ぶ。島の反対側である東側はメイン・マーケットがあるほか、貧困な住宅が密集する。ラゴス島はエコ橋、カーター橋、第三本土連絡橋の3本の橋で本土と結ばれているが[[渋滞]]が激しく交通はマヒ状態であり、新しい道路やラグーンを渡る橋の建設が計画されている。
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== 交通 ==
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[[フェリー]]と[[高速道路]]が都市の各部分をつなぐ。しかし、市内交通は混雑して機能していない。無数のバス、タクシー、自家用車、トラック、そして歩行者が幹線道路という道路を埋め尽くし、交差点やバスターミナルは末期的な症状を呈している。
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空運に関しては、市の北部のイケジャに[[ムルタラ・モハンマド国際空港]]があり、ナイジェリアの空運の中心となっている。ムルタラ・モハンマド国際空港からはヨーロッパやアフリカ各地への便が出発するほか、[[エア・ナイジェリア]]や[[アリクエア]]など国内航空各社のハブ空港となっている。
ラゴス港はナイジェリア最大の港であり、1990年代にはナイジェリア全国の貨物取扱量のうち75%がこの港で扱われた<ref name="Sekaichiri419">田辺 裕、島田 周平、柴田 匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店 p419 ISBN 4254166621</ref>。21世紀に入っても、ラゴス港はナイジェリアの大半の貨物を取り扱っている。
== 政治 ==
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== 言語・住民 ==
公用語は[[英語]]である。また、ラゴスはもともと伝統的なヨルバランド内に位置しているため、住民は[[ヨルバ人]]が最も多く、[[ヨルバ語]]も広く話されている<ref
== 歴史 ==
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ラゴスは元来「'''エコ'''(Eko、「[[キャッサバ]]畑」の意味)」という名だった。村は[[ベニン王国]]から来た王族、アドによって建てられた。彼はバロ、アキンセモイン、エレル・クティの3人を生んだ。エコは王宮の建てられた場所だった。エコの南の部分に入植していた元からいた人々は「イサレ・エコ(エコの底)」と呼ばれていた。
エレル・クティは王オログン・クテレを生み、その弟ショクンは王宮の裏に「オニレ・グバレ(地主がお前の土地を一掃する)」という名の族長の邸宅を与えられた。王朝はこうして始まり、王の弟は独自の族長家を王宮の裏で始めた。
今日のラゴスは[[16世紀]]に[[ポルトガル]]人によって建設され、[[1851年]]まで[[奴隷貿易]]の一大中心地となった。[[1807年]]、[[イギリス]]が[[奴隷制度廃止運動|奴隷制の禁止]]をかかげて西アフリカ沿岸の奴隷貿易港湾を襲い、ラゴスもその手に落ち、[[1861年]]公式にイギリス[[植民地]]として併合された<ref
[[1976年]]、対立しあう北部と南部の中間にある[[アブジャ]]にナイジェリアの首都が移転することになった。しかし、ほとんどの政府機関(特に国家の中枢)は、アブジャが十分に開発されていないとの理由でラゴスに残ることとなった。アブジャは[[アメリカ合衆国]]の[[ワシントンD.C.]]や[[ブラジル]]の[[ブラジリア]]のような人工的な首都であり、元から街のある通常の首都とは異なり荒地の上に新たに建設されたため、長い間街とはいえないような状態だったからである。[[1991年]]11月14日、国家の中枢とその他の政府機関がついに新しくできた首都に移り、行政機関とその関係者の大移動が起こった<ref name="Conference">{{cite web|url=http://www.pamro.org/pamro/2008/PAMRO%20LOC%20Welcome%2014Aug08.PPT|title=2008 All Africa Media Research Conference|page=8 |publisher=Pan African Media Research Organisation |accessdate=4 April 2012|format=PPT}}</ref>(多くの情報源では、1991年をラゴスが首都でなくなった年としているが、公式には1976年から首都ではなかった)。この変化は、ラゴスからいくらか権威と経済的な影響力を削ぐことになった。しかし、ラゴスが今でも国内最大の都市で経済の中心であるという重要性に変わりはない。
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