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義俊は家中の信望を失っており、[[1622年]](元和8年)、最上氏は騒動を理由に幕命により[[改易]]されることとなった。宗家の[[斯波武衛家]]が滅亡していたので、斯波氏の流れを汲む最上氏は断絶を惜しまれ、[[近江国]]蒲生郡に1万石の[[知行]]を改めて与えられた。しかし義俊の死後、子の[[最上義智|義智]]が幼少であったために5000石に減知され(参勤交代等で財政が逼迫し、藩からの願いもあった)、子孫は[[旗本]][[交代寄合]]として存続した。
 
義光の4男[[山野辺義忠]]は最終的には[[水戸藩]]の[[家老]]に抜擢され、子孫は代々世[[御附家老|附家老]][[中山氏]]に次ぐ重臣として藩政に重きをなした(テレビ時代劇「[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]」において[[大友柳太朗]]・[[高松英郎]]・[[丹波哲郎]]らが演じた、水戸藩謹直で古武士風外見、何かと口うるさく、ご老公達が旅に出るのを止めようとする水戸藩国家老「山野辺兵庫」は、義忠の子の[[山野辺義堅|山野辺兵庫頭義堅]]をモデルにしている)。
 
また義光の甥にあたる[[松根光広]]の子孫は[[宇和島藩]]の家老家として続き、幕末には[[伊達宗城]]を補佐した[[松根図書]]が出ている。また、[[夏目漱石]]の弟子で俳人の[[松根東洋城]]は図書の孫である。