「川勝光隆」の版間の差分

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[[貞享]]2年([[1685年]])、[[川勝隆成]]の嫡男として[[江戸]]に生まれた。[[元禄]]8年([[1695年]])2月28日、初めて将軍[[徳川綱吉]]に拝謁した。光隆、時に11歳であった。[[宝永]]6年([[1709年]])4月6日、[[大番]]に列した。[[享保]]4年([[1719年]])11月2日、父隆成の死去により、その家督([[蔵米]]400俵)を継いだ。
 
享保15年([[1730年]])2月7日、[[組頭]]となった。[[元文]]元年([[1736年]])[[二条城]]の守衛にあって<ref>元禄12年([[1699年]])から二条城代が廃止され、その職務は[[二条在番]]が担当することとなっていた。</ref>女御御所の造営に携わったため、同年11月2日、黄金2枚を給わり、同年11月4日[[禁裏]]よりも紗綾五巻を拝賜した。[[寛保]]3年([[1743年]])閏4月15日、[[雲松院|利根姫]](将軍[[徳川吉宗]]の養女)の[[用人]]に転じ、同年12月21日に[[布衣]]を着る事を許された。[[延享]]2年([[1745年]])、利根姫逝去により、延享3年([[1746年]])3月8日に退職を許され、[[旗本寄合席|寄合]]に列し、同年8月21日に[[船手]]となった<ref>軍艦の管理と海上輸送に関わる事務にあたった。後に[[軍艦奉行]]が職務を引き継いだ。若年寄支配。</ref>。[[宝暦]]元年([[1751年]])7月16日、67歳で没した。家督は養子の(実弟)隆恭が継いだ。
 
== 脚注 ==