「ベンガル太守」の版間の差分

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===ムルシド・クリー・ハーンの活躍===
[[File:Murshid Quli Jafar Khan.jpg|thumb|250px|right|ムルシド・クリー・ハーン]]
[[ファイル:Portrait of the Emperor Farrukh Siyar, 1715.jpg|thumb|right|250px|ファッルフシヤル]]
 
ベンガル地方政権の祖である[[ムルシド・クリー・ハーン]]の経歴を見ると、彼はもともと[[イラン人]]貴族の奴隷だったが、ムガル皇帝[[アウラングゼーブ]]に実力を認められ、その部下となった人物だった。
 
 
===マラーターの略奪と国力の疲弊===
[[File:Allavardi Xán.jpg|thumb|250px|right|アリー・ヴァルディー・ハーン]]
[[Image:Fortwilliamplan2.jpg|right|250px|thumb|Plan (top-view) of Fort William, c. 1844|ウィリアム要塞]]
 
[[1741年]][[3月3日]]、太守アリー・ヴァルディー・ハーンは、攻め込んできた隣国[[オリッサ]]に勝ちその領土を奪ったが、敗れた[[オリッサ太守]]の[[ルスタム・ジャング]]は、[[マラーター同盟]]の[[ボーンスレー家]]に援助を求めた。
 
[[6月23日]]明朝7時頃、先手を打ったクライヴは、プラッシー村に野営していたベンガル軍に攻撃を加え、ベンガル軍もすぐにこれに応戦し戦闘が始まった。
 
ベンガル軍62,000は、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラの武将[[モーハン・ラール]]と[[ミール・マダン]]率いる歩兵5000と騎兵7000、太守の叔父ミール・ジャーファル率いる歩兵35,000と騎兵15,000であり、あとはフランスの援助である大砲53門と操作するフランス兵40であった。
 
[[1763年]][[10月]]末、イギリス軍はパトナに攻めてきたが、ミール・カーシムは度重なる裏切りに絶望して戦意をなくし、[[アワド太守]]の[[シュジャー・ウッダウラ]]の保護を受けるために、隣接する[[アワド]]へと逃げた。
 
===ブクサールの戦い===
[[File:अवध के नवाब शुजाउद्दौला.jpg|thumb|right|230px|シュジャー・ウッダウラ]]
 
[[画像:Portrait1790s.jpg|thumb|right|230px|シャー・アーラム2世]]
ミール・カーシムはアワドに落ち延び、アワド太守シュジャー・ウッダウラの保護をうけ、元の状態に戻れるよう援助を約束され、同様にシュジャー・ウッダウラに保護されていたムガル帝国の皇帝[[シャー・アーラム2世]]とも合流した。
 
こうして、ムガル皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成され、三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定し、[[1764年]][[10月22日]]三者連合軍40000はビハールとアワドの州境にあるブクサール(バクサルとも)でイギリス軍7000と会戦し(ブクサールの戦い)
三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定し、[[1764年]][[10月22日]]三者連合軍40000はビハールとアワドの州境にあるブクサール(バクサルとも)でイギリス軍7000と会戦した(ブクサールの戦い)。
 
しかし、ミール・カーシム軍は給料未払いで兵士に戦意がなく、皇帝軍は内通者があり兵が動かなかったため、実際はアワド太守の軍とイギリス軍との戦いで、戦いは1日で終結し、結果はイギリスの圧勝であった。
ここに、ベンガル太守の領有権は事実上失われ、ベンガル太守は単なる有名無実の肩書となり、ベンガルの植民地化は決定した。
 
一方、前ベンガル太守ミール・カーシムは投獄されたのち釈放され、インド各地を転々と放浪し、[[1774年]]頃からデリーに住み、[[1777年]][[5月8日]]に帝都デリーで死亡した(その困窮の度合いは凄まじく、彼の葬儀を行うために。
 
===ベンガルの藩王国化とインド併合===
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