「ベンガル太守」の版間の差分

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[[画像:Robert-clive.png|thumb|200px|ロバート・クライブ]]
 
即位後、シラージュ・ウッダウラは、ガシティー・ベーグムに味方した[[ダッカ]]市長[[フセイン・クリー・ハーン]]を殺害し、彼女は後任の市長に[[ラージャ・ラージ・バラフ]]を任命していた。そのため、シラージュ・ウッダウラは、ラージャ・ラージ・バラフが公金を横領したとして、その邸宅をおさえ彼を逮捕したが、息子の[[クリシュナ・ダース]]はウィイギアム要塞スのカルカッタに逃げ込んだ。
 
ベンガル太守シラージュ・ウッダウラは、イギリスが行ってきたカルカッタのウィリアム要塞の強化増築不服であり、イギリス東インド会社及びその職員が行ってきた勝手な密貿易は、ベンガル経済に大きな打撃を与えていると抗議し、イギリスに対してただちにこれらの中止をイギリスに要求した。また、クリシュナ・ダースの引き渡しを要求した
 
しかし、イギリスは彼の使者を追い返して、その要求を無視してこれらを続行し、クリシュナ・ダースの引き渡しも拒否した。
[[6月23日]]明朝7時頃、先手を打ったクライヴは、プラッシー村に野営していたベンガル軍に攻撃を加え、ベンガル軍もすぐにこれに応戦し戦闘が始まった。
 
ベンガル軍62,000は、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラの武将[[モーハン・ラール]]と[[ミール・マダン]]率いる歩兵5000と騎兵7000、太守の叔父ミール・ジャーファル率いる歩兵35,000と騎兵15,000であり、あとはフランスの援助である大砲53門と操作するフランス兵40であった。
 
一方、イギリス軍の構成は、ヨーロッパ人兵800名とシパーヒー2300人と、ベンガル軍に対し極めて少数だった。
そして、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラは逃げきれずに捕えられ、[[7月2日]]に殺害され、その遺体は首都ムルシダーバードへと運ばれた。
 
こうして、イギリスによるベンガルにおける覇権が決まり、ベンガルは完全にイギリスによって制圧され、フランスは次の第3次[[カーナティック戦争]]にも負けて占領されインドから撤退し、南インドにおいてもイギリスの覇権が決定した。
 
だが、シラージュ・ウッダウラの反英闘争は決して無駄ではなく、[[1930年]]代からのベンガル及びインドの反英闘争において、彼はイギリス支配に抵抗した「英雄」として扱われ、現在のバングラデシュでも同様である。
そのため、やりきれなくなったミール・ジャーファルは、[[酒]]や[[ハーレム]]浸りとなり、遂には麻薬まで手を出すようになった。
 
このベンガルの状況に対し、[[1760年]]にマラーター同盟がベンガル領内に侵攻してきたが、ミール・ジャーファルの要請で出動したイギリス軍によって追い払われ、また、家臣[[ハーディム・フセイン]]が反乱を起こしたが、これもイギリスによって鎮圧された。もはや、ベンガルはイギリスの援助なしでは1日として存続できないようになっていた。
 
同年、クライヴは帰国し、新たにベンガル知事となった[[ヘンリー・ヴァンシタート]]は、ミール・ジャーファルに巨額の支払いを続ける変わりに、[[チッタゴン]]をイギリス東インド会社に割譲するよう提案したが、彼は同意しなかった。
しかし、ミール・カーシム軍は給料未払いで兵士に戦意がなく、皇帝軍は内通者があり兵が動かなかったため、実際はアワド太守の軍とイギリス軍との戦いで、戦いは1日で終結し、結果はイギリスの圧勝であった。
 
その後、イギリスのベンガル知事クラヴ(1765年[[3月]]に帰国し、ベド会社ガル知事に再任していた)は戦後処理として、アワド太守シュジャー・ウッダウラにミール・カーシムを捕えさせ投獄し、翌[[1765年]][[8月16日]]に[[アラーハーバード条約]]が締結され、イギリスはこのアラーハーバード条約により、ムガル皇帝からベンガル、ビハール、オリッサ3州の[[ディーワーニー]]を獲得した。
 
ディーワーニーとは、ムガル皇帝より[[ディーワーン]]と呼ばれる各州の徴税長官に与えられる権限を意味し、徴税権、司法権、行政権など内政権を含む権限であったが、イギリスは事実上の領有権を主張し、帝国の与えたディーワーニーよってそれらの土地の支配が正当化されたと判断した。
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