「ベンガル太守」の版間の差分

イギリスはミール・ジャーファルの後任として、ミール・ジャーファルの娘婿である[[ミール・カーシム]](在位1760 - 1763)を、新たなベンガル太守に任命した。
 
このミール・カーシムという人物は以前から義父ミール・ジャーファルの政治を補佐し、その在任中に頻発した反乱と和解、鎮圧するなど、イギリス側からも注目されていた人物でもあった。
 
だが、ミール・カーシムも自分をベンガル太守に擁立する代償に、イギリスと秘密協定を交わしており、ヴァンシタートに50万ルピー、イギリス東インド会社の高官に175万ルピー、イギリス東インド会社に150万ルピー、あわせて総額325万ルピーの支払いを約束していた。
 
そのため、ミール・カーシムは様々な名目でその費用をザミーンダールから徴収し、支払わない者は財産を没収するなど強権的な態度に出たが、長年徴収されてばかりいたザミーンダールらの反感を買い、一部のザミーンダールは反乱まで起こした。
 
こうなると、ミール・カーシムはだんだんとイギリスの支配から独立したいと思うようになり、ヨーロッパ人の軍事教官を雇い入れ、兵器も最新のものにするなどベンガル軍の改革に乗り出し、首都をムルシダーバードからビハールの[[ムンガー]]に移転し、イギリスから軍の強化を悟られないようにした。
 
さらに、ミール・カーシムはベンガル軍の改革の成果をみるため、国境を接する隣国[[ネパール]]に密かに侵攻し、一応、ネパール軍を破ったがゲリラの抵抗が強く、領土を保持できず占領地からは撤退した。
しかし、イギリス東インド会社の高官も私貿易をおこなっており、ベンガル側の人間も賄賂を受け取り見逃がしたためほとんど効果がなかった。
 
また、ミール・カーシムはイギリスが様々な方法でベンガルの人々を苦しめていると、これらも併せてイギリスに抗議した。たとえば、地元商人にイギリスの商品を扱わせなかったり、地元農民から農作物を4分の1の値段で強制的に買い上げたリ、イギリスが徴税権を持つカルカッタなどの土地において、税が支払えない農民から強制的に土地を取り上げたりしているというものだった(通常、税が払えなくても財産である土地を取り上げられることはなく、鞭打ちの刑にあうだけだった)。
 
だが、イギリス側はこれらの要求を無視し続けたため、ミール・カーシムとイギリスの関係はさらに悪化した。
 
[[1763年]]、ミールカーシムは関税問題の解決策として、地元商人だけが不利にならぬよう、すべての商品関税を無税にさせる措置をとったが、イギリス側は「イギリス人の権利は守られねばならず、イギリス人以外のすべての商人は関税を支払わなければならない。」と主張し、関税を廃止するという命令は撤回されるべきであるとし、イギリス側の使者[[アミャット]]にこれを伝えさせた。
 
これに対し、ミール・カーシムは、「すべての要求を受け入れる余裕用意はあるが、唯一の条件はベンガルからすべてのイギリス人兵士がいなくなることだ。」と言い、折り合いがつかなかった。
 
時を同じくして、[[パトナ]]にあるイギリス工場の工場長[[エリス]]は、関税をめぐってベンガルとトラブルを起こし、腹いせに[[パトナ]]にある太守の要塞を攻撃し、パトナの町を占拠し略奪をほしいままにしたが、ミール・カーシムはすぐさまパトナに軍勢を送り、エリスの工場を焼き払わせ、エリスを降伏させた。
 
この時、ミール・カーシムは、伝言を伝えたのちにカルカッタへ帰還しつつあったアミャットの船の拿捕を命じたが、アミャットが抵抗しため砲撃戦となり、アミャット以下多数の乗組員が戦死した。
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