「梅崎春生」の版間の差分

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戦後、[[江口榛一]]の『素直』編集部に勤め、同誌に「桜島」を発表。新進作家として注目される。1950年「黒い花」、1951年「零子」、1953年「拐帯者」がそれぞれ直木賞候補となり、「ボロ家の春秋」(『新潮』1954年(昭和29年)8月号)で第32回[[直木三十五賞|直木賞]]([[1954年]]・下半期)を受賞。同年「砂時計」(『[[群像]]』1954年8月-1955年7月)で第2回[[新潮社文学賞]]受賞。1964年「狂ひ凧」で[[芸術選奨]]文部大臣賞受賞。
 
父親の建吉郎は[[佐賀県]]出身で[[陸軍士官学校]]を卒業した軍人であり、[[海軍大将]][[百武源吾]]とも[[佐賀県立佐賀西高等学校|旧制佐賀中学]]の同窓。父の福岡配属時に春生が生まれた。祖父梅崎長明の弟梅崎綱吉は、佐賀で相場師として活躍し名を馳せた。第32回直木賞は、佐賀出身の[[戸川幸夫]]と合わせ、佐賀の血を引く作家が同時受賞した。
 
文学史上では[[第一次戦後派作家]]のうちの一人とされている。