「安治川部屋」の版間の差分

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[[1979年]]4月に、現役時代は[[宮城野部屋]]所属で3代安治川を襲名してから[[友綱部屋]]へ移籍していた元[[関脇]]・[[陸奥嵐幸雄|陸奥嵐]]が友綱部屋から独立して安治川部屋を創設した。[[1990年]]7月には春日山親方(元幕内・[[大昇充宏|大昇]])の定年退職に伴い、幕内・[[春日富士晃大|春日富士]]などが所属している[[春日山部屋]]を吸収合併した。3代安治川は体調不良を理由として[[1993年]]4月に廃業し、師匠の座から退いた。3代安治川が師匠を務める間は、部屋から生え抜きの関取は誕生しなかった。なお、3代安治川は弟子の[[四股名]]に「陸奥」を付けることが多かった。
 
3代安治川の廃業と同時に、安治川部屋の部屋付き親方である元[[横綱]]・[[旭富士正也|旭富士]](現役時代は[[大島部屋]]所属)の旭富士親方が年寄・安治川を襲名して安治川部屋を継承した。同時期には[[プロレス]]の専門紙である『[[週刊ファイト]]』に「来たれ若者、相撲の世界へ」と題した一面広告を毎週掲載して話題となる。その後、先代からの弟子である[[十両]]・[[陸奥北海勝昭|陸奥北海]]や、自身の直弟子として関脇・[[日馬富士公平|安馬]](後の横綱日馬富士)に関脇・[[安美錦竜児|安美錦]]、幕内・[[安壮富士清也|安壮富士]]などといった関取を輩出した。
 
部屋を継承した当初は、4代安治川は弟子の四股名に「富士」を付けていたが、部屋を継承してから約1年後以降に入門した弟子には四股名の頭文字に安治川の「安」を付けている。部屋を継承して3年後の[[1996年]]5月場所には、春日富士・陸奥北海・智ノ富士(1993年5月場所初土俵・[[1994年]]3月場所のみ安智泉と名乗っている)の3人を除く全力士が「安」の字がついた四股名を名乗っていた。