「トグス・テムル」の版間の差分

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| 全名 =
| 配偶者1 =
| 子女 = [[天保奴ティポヌ]]、[[地保奴ティボヌ]]
| 王家 = [[クビライ家]]
| 王朝 =
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| 出生日 = 不詳
| 生地 =
| 死亡日 = [[天元 (北元)|天元]]10年[[10月 (旧暦)|10月]]([[1388年]][[11月]]
| 没地 =
| 埋葬日 =
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{{基礎情報 中国君主
|名 =平宗 脱古思帖木児
|代数 =3
|呼称 =皇帝
|王朝 =北元
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|諡号 =寧孝皇帝
|廟号 =平宗
|年号 =[[天元 (北元)|天元]] : [[1379年]] - [[13871388年]]
|注釈 =
}}
'''トグス・テムル'''([[モンゴル語]]:{{mongolUnicode|ᠲᠡᠭᠦᠰ ᠲᠡᠮᠦᠷ}}、'''Tögüs-Temür''')は、[[モンゴル帝国|モンゴル]]の第17代大[[ハーン]]([[北元]]として第3代皇帝)。昭宗[[アユルシリダラ]]の弟。治世の[[元号]]から'''天元帝'''と呼ばれることもある。[[クビライ]]以来続いてきた[[元 (王朝)|元朝]]の王統から出た最後のハーンとなった。
 
== 生涯 ==
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[[天元 (北元)|天元]]9年([[1387年]])、東北方面に勢力を持つ[[ジャライル]]部の[[ナガチュ]]が明の北伐を受けて窮地に陥ったことを受け、東方に向かって遠征を行った。しかしナガチュは明に降伏してしまい、トグス・テムルも翌年に[[ホロンボイル]]地方のブイル・ノールで明の将軍[[藍玉 (明)|藍玉]]と戦って大敗した。この戦いで元軍はトグス・テムルの皇后をはじめ、8万と言われる多数の軍民を捕虜とされて大半が壊滅した。
 
トグス・テムルは[[カラコルム]]を目指して落ち延びたが、途中で高原西部に勢力を持つ[[アリクブケ]]系統の王族[[イェスデル]]の襲撃を受け、その残軍もほとんど壊滅した。トグス・テムルはわずか16騎とともに辛くも逃げ延びたものの、大雪に阻まれてカラコルムにたどり着けないでいるうちにイェスデルの軍に追いつかれて捕らえられ、殺害された。トグス・テムルには2人の男子がいたが、長男の[[天保奴]](ティポヌ]](天保奴)は父とともに殺害され、ブイル・ノールで捕虜となった次男の[[地保奴]](ティボヌ]](地保奴)は明によって[[琉球]]に流されたため、クビライ王統はここに一旦断絶した。
 
トグス・テムルを殺害したイェスデルは自らハーンに即位するが、その王統は長続きせず、モンゴルは長い混乱期に入ることになる。
 
{{先代次代|[[モンゴル帝国]]([[北元]])第17代大ハーン|1378年 - 1388年|[[アユルシリダラ]](昭宗)|[[イェスデル]]}}
 
{{DEFAULTSORT:とくすてむる}}