「島木健作」の版間の差分

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[[北海高等学校|旧制北海中学]]卒業後、北大図書館などの勤務を経て、[[1925年]][[東北帝国大学]][[法学部]]の選科に入学。入学後間もなく東北学連に加盟、中心人物として[[仙台市|仙台]]初の[[労働組合]]の結成にも携わる。翌年大学を中退し、日本農民組合香川県連合会木田郡支部の有給書記として農民運動に参加する。翌[[1927年]]には[[肺結核]]に苦しみながら、最初の[[普通選挙]]による県会国会選挙の活動に従事、この頃[[日本共産党]]に入党したと推定される。しかし[[1928年]]の[[三・一五事件]]で検挙され、[[起訴]]後の翌[[1929年]]に[[転向]]の声明を行った。[[1930年]]3月に有罪の判決を受けて服役するが、肺結核の悪化に苦しみ病監から隔離病舎に移され[[1932年]]3月仮釈放となる。
 
[[東京]][[本郷 (文京区)|本郷]]で[[古書店|古本屋]]を営む実兄の家に落ち着き、正則英語学校(現在の[[正則学園高等学校]])にも通い、少年時代から関心の深かった文学の世界に生きる決心をし、[[1934年]]転向問題を扱った処女作『癩(らい)』を「文学評論」4月号に発表し世評を呼ぶ。さらに『盲目』を「中央公論」に発表、短編集『獄』を出版して作家としての地位を確立した。1935年[[文芸懇話会]]の文学賞で、[[横光利一]]の『紋章』に次いで二位にあげられるが、[[松本学]]が左翼作家への賞を拒否したため三位の[[室生犀星]]が繰り上がり受賞して、[[佐藤春夫]]が懇話会を脱退した。
 
[[1936年]]「文学界」同人。『癩』『盲目』に続いて転向問題に切り込んだ長編『再建』は発売禁止となったが、同じ[[1937年]]に発表した長編『生活の探求』は、知識階級の良心を守るものとして青年層を中心に多くの読者に迎えられベストセラーとなった。[[1937年]]以降、鎌倉に住む。[[1939年]][[満州]]を旅行、優れたルポルタージュである『満州紀行』を出版。[[1941年]]には徴用されたが、身体検査の結果返された。[[1942年]]以降は床にあることが多く、病をおして長編『礎』を[[1944年]]発表したが、翌[[1945年]]の敗戦の2日後、鎌倉の病院で[[肺結核]]のため、老母や夫人、多くの友人らに看取られて世を去った。遺作として『土地』『赤蛙』『黒猫』などの作品が発表された。墓は鎌倉の[[浄智寺]]にある。
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