「E.T.A.ホフマン」の版間の差分

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==== ポーゼン - プローク時代 ====
[[ファイル:Karikatur Hoffmann.gif|thumb|left|190px|戯画的に描かれたホフマンの自画像]]
ポーゼンの住民は大部分がポーランド人であり、ドイツ人の役人はドイツ人だけを招いて集会を開いていた。ホフマンはそうした集会の一つである娯楽集会「社交クラブ」のメンバーとなり、政府顧問官ヨハン・ルートヴィヒ・シュヴァルツと親交を結んだ。ホフマンはこのクラブのためにカンタータを作曲しており、シュヴァルツが脚本を書いている。またホフマンはこの集会で[[ワイン]]の愛好熱に取り付かれ、取り分け[[プンシュ|ポンス酒]]を好むようになった。しかし1802年2月、謝肉祭の仮面舞踏会席上で配布したホフマンによる諷刺画に対し、モデルにされた連隊長ヴィルヘルム・フォン・ツァストフ少将が激怒し、ベルリンにこの件に関する回状を送った。ホフマンは罰としてポーゼン勤務を解かれ、プローク(現ポーランド領プヴォツク)への左遷が決まる。プローク行きに先立つ1802年7月、ホフマンはシュヴァルツを通じて知り合ったポーランド人女性ミヒャエリナ・ローレル・トルツィンスカ(Michalina Rorer-Trzynska、愛称ミーシャ)と結婚、汚職で告訴されたミーシャの兄の娘であるミシャリーナを養女とし、二人を伴って8月にプロークに移った。
 
当時のプロークは人口2500人あまりの寒村であった。ホフマンはこの地の社交界に興味を示さず、余暇には自宅に引きこもって創作活動に専念した。この時期ホフマンは喜劇『賞金』を制作し、当時人気のあった喜劇作家[[フリードリヒ・アウグスト・コッツェブー]]に送った(この原稿は現在残っていない)。またこの頃にヨハン・クリスティアン・ヴィークレプの『自然魔術』(化学を用いた手品を扱ったもの)を読んで自動人形を製作することを思い立ったり、ルソーの『告白』を読むなどしている。1804年3月、1年半の左遷が解かれワルシャワへの勤務命令を受け、4月にミーシャ、ミシャリーナを連れ同地に向かった。