「昇進伝達式」の版間の差分

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* [[明治]]36年([[1903年]])に[[常陸山谷右エ門]]が横綱免許を打診された際、「できれば[[梅ヶ谷藤太郎 (2代)|二代目梅ヶ谷藤太郎]]と一緒にお願いしたい」と答えたと言われているが、あるいはこれが現在のような伝達式の最初かもしれない。
* [[大正]]6年([[1917年]])1月場所後、[[大錦卯一郎]]が横綱に、[[栃木山守也]]が大関に、[[出羽海部屋]]の両力士が同時昇進を果たしたが、伝達式は一緒に行われたのかどうか、資料が少なくはっきりしない。<br/>その後、同様の例は一度もなく(二人とも大関の例では、[[1962年|昭和37年]]5月場所の[[栃ノ海晃嘉]]・[[栃光正之]]の同部屋同時昇進の伝達式が一緒に行われている)、[[平成]]5年([[1993年]])7月場所で、ともに[[二子山部屋]]の力士であった[[貴乃花光司|貴ノ花光司]](当時大関・のち横綱貴乃花)と[[花田勝|若ノ花勝]](当時[[関脇]]・のち横綱若乃花)が、それぞれ横綱・大関への同時昇進の可能性があった時には、[[日本相撲協会]]も前例から学ぶことができずに苦慮したといわれる。結果的に、同場所では若ノ花の大関昇進だけ実現した。
* 旧二子山部屋所属の、大関及び横綱への昇進が決まった力士の伝達式での口上は、「[[四字熟語]]」を使用するケースが目立っている。例として、貴乃花光司は平成5年1月場所後の大関昇進では「『不撓不屈』の精神で相撲道に精進いたします」、平成6年([[1994年]])11月場所後の横綱昇進では、「相撲道に『不惜身命』を貫く所存です」と口上。又貴乃花の兄である若乃花勝は、平成5年7月場所後の大関昇進では「『一意専心』の気持ちを忘れず相撲道に精進します」、平成10年([[1998年]])5月場所後の横綱昇進では「『堅忍不抜』の精神で精進していきます」と、それぞれ若貴兄弟はほぼ定型なものになっていた伝達式での口上に新境地を与えていた。さらに若貴兄弟と同じ二子山部屋の[[貴ノ浪貞博]]も、大関昇進の伝達式では『勇往邁進』という四字熟語を使用していた。この3人の発言から四文字熟語を口上するものだと誤解されがちだが、義務ではないため、他部屋の力士はあまり言使わない事も有る
* [[昭和]]も戦後しばらくまで、番付編成会議は[[千秋楽]]の当夜、伝達式は翌朝に行われていた。[[鏡里喜代治]]や[[栃錦清隆]]、或いは[[若乃花幹士 (初代)|若ノ花勝治]]に、自分が昇進出来るとは思わず使者が到着しても部屋に不在であったため、部屋関係者に慌てて呼び戻されたという話がある。現在では編成会議は千秋楽の3日後に開かれることが多い。
* 通常使者を迎える側は、大関・横綱へ昇進する力士本人と、その師匠夫妻が伝達式に出席する。例外として、昭和56年([[1981年]])1月場所後に大関昇進と及び同年7月場所後に横綱昇進した[[千代の富士貢]]の場合、当時師匠の[[九重 (相撲)|九重]]親方(元横綱[[北の富士勝昭]])と、昭和52年([[1977年]])10月に死去した先代九重親方(元横綱[[千代の山雅信]])の[[寡婦|未亡人]]が同席していた。これは北の富士が「千代の富士を相撲界に入門させたのは亡き先代九重の方だから」という配慮からであった(なお千代の富士の大関昇進時の九重親方は当時未婚だった。その後千代の富士の弟弟子である[[北勝海信芳]]の大関及び横綱昇進伝達式の時は、九重親方夫妻が揃って出席している)。