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{{出典の明記|date=2012年11月}}
[[ファイル:Edward Gibbon by Henry Walton cleaned.jpg|thumb|200px|エドワード・ギボン]]
'''エドワード・ギボン'''(Edward({{lang|en|Edward Gibbon}}, [[1737年]][[5月8日]]<ref>当時イギリスで採用されていた[[ユリウス暦]]の日付では[[4月27日]]。</ref> - [[1794年]][[1月16日]])は、[[イギリス]]の[[歴史家]]で、『[[ローマ帝国衰亡史]]』の著者である。
 
彼は[[ロンドン]]近郊のパットニー(Putney)で富裕ではないが比較的裕福な、[[ハンプシャー]]に領地を持っている家庭に生まれた。エドワードはギボン家唯一の子息で、10歳にして母親を失い、その後は伯母に育てられた。彼は子供時分、体が強くなかった。14歳になると父親は彼を[[オックスフォード大学]]に入れた。後年、彼はこの出来事について、「(父は)慎重さからというよりも当惑から、準備もなく、また遅らせることも無く、私をオックスフォードへ連れていった。そして私はかの大学のモードリンカレッジ(Magdalen(Magdalen College)College)の紳士階級の一般学生として入ったわけだが、それは私が15歳という年齢を終える前の出来事であった」と語っている。
 
父親は若かりし頃の彼が信仰をローマ[[カトリック教会|カトリック]]教会へ傾けかけた時、不安に思った。その頃のオックスフォード大学では宗教論争が激しく、イギリスで紳士階級の人間がカトリックへ改宗するというのは18世紀の当時、人生においてとてつもない意味を持っていた。紳士階級社会の多くからは排斥されるであろうし、また昇進が望めるような門は閉ざされる、ということである。それを恐れた父親は息子を大学から追い出し、彼を[[スイス]]の[[ローザンヌ]]に住む[[プロテスタント]]の牧師であり個人教授も行っていたパヴィリアード(M. Pavilliard)の元へ送った。彼がローザンヌで受けた教育は終世、彼に大きな影響力を持った。彼は覚え書きにこう書いている。「我が教育の成したものがなんであろうと、それらは私をローザンヌへ追いやった幸運な追放のたまものである。……''(英語版からの訳より)''
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==関連項目==
{{wikiquote|エドワード・ギボン}}
[[Image:Statue_of_the_goddess_Pax_(Pavlovsk_Garden,_St_Petersburg,_Russia).jpg|thumb|150px|パークスの石像]]
*[[パクス・ロマーナ]]
 
== 脚注 ==
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<references />
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{{DEFAULTSORT:きほん えとわあと}}