'''応 劭'''(おう しょう、? ~ [[204年]] 8月以前)は、[[中国]][[後漢]]末期の人政治家。[[字]]は'''仲瑗'''。[[豫州]][[汝南郡]]南頓県の人。[[建安七子]]の'''応瑒'''の伯父。『風俗通』、・『漢官儀』といった著作や『[[漢書]]』の注釈で知られるを著した。父は応奉。叔父は[[応瑒]]([[建安七子]]の一人)・応璩。
== 略歴 ==
代々[[太守]]などを務めた家に生まれ、父の応奉は[[武陵]][[太守]]・[[司隷校尉]]となった。
応劭は若い頃から勉強熱心で、博覧強記の人であった。[[霊帝 (漢)|霊帝]]の時代に[[孝廉]]にへ推挙され、[[車騎将軍]]の[[何苗]]に招かれて掾(属官)となった。
[[中平]]2年([[185年]])に、漢陽の賊である[[韓遂]]らが[[羌]]族と共に反乱を起こした際、討伐に遣わされた[[皇甫嵩]]が[[烏桓]]の兵3000を要請したのに対し、[[北軍中候]]の[[鄒靖]]は「烏桓は弱いので、[[鮮卑]]より兵を募るべきだ」と進言した。そのことについて議論した際、応劭は「鮮卑は漢に心服しておらず制御できないので、反乱しなかった羌族から兵を募る方が良いのでは」と主張したため、その意見が採用された。
その後、[[青州]]の[[泰山]]太守となった。[[初平]]2年([[191年]])、[[黄巾賊]]30万が郡の境界に侵入してきたが、応劭は郡の文官・武官を率いて賊と戦い、全部で首級数千・捕虜一万余り、輜重二千輌の戦果を挙げ、た。このことで賊はが退却して郡内は危機を逃免れた。
[[興平 (漢)|興平]]元年([[194年]])、[[兗州]][[牧]][[曹操]]の父である元[[太尉]]の[[曹嵩]]が、避難していた[[徐州]]の瑯邪から泰山へ入った際、応劭は兵を遣わして彼を迎えようとしたが、それまでの戦いで曹操を恨んでいた[[徐州]]牧[[陶謙]]が、騎兵を送って曹嵩を攻撃させたため、応劭の兵が合流する前に郡の境界で曹嵩を殺死なせてしまった。応劭は曹操に殺されるのを怖れて郡を捨て、[[冀州]]牧[[袁紹]]の元へ逃げた。
応劭は[[建安 (漢)|建安]]元年([[196年]])に『漢官儀』を完成させて[[献帝 (漢)|献帝]]に献上した。翌年献帝の命で、応劭は袁紹の軍謀[[校尉]]となった。当時まだ[[許都|許]]に遷都したばかりで、制度や故事が多く失われていたことから、応劭は『漢官礼儀故事』を著した。許における朝廷の制度などは、多くが応劭によって立てら直された。
また父の応奉が司隷校尉時代に、各役所に先人の肖像などを提出させていたが、応劭はそれを編纂して『状人紀』と命名した。また、当時の事柄を論じた『中漢輯序』や、物や事柄について弁じ習俗や嫌疑を解釈した『風俗通』を著した。その他、『漢書』の集解を著しており、これは『漢書』[[顔師古]]注に多数引用されている。著述したのは全部で136篇であった。
その後、[[ギョウ|鄴]]で死亡去した。彼の弟の子である[[応瑒]]・応璩も文才で知られた。応瑒は所謂「[[建安七子]]」の一人に数えられている(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[王粲]]伝注引『典論』)。
== 参考文献 ==
|