「伊達政宗」の版間の差分

一説によれば、翌5月7日の[[天王寺・岡山の戦い|天王寺の戦い]]で政宗は船場口に進軍し[[明石全登]]隊と交戦していた水野勝成勢の[[神保相茂]]隊約300人を味方討ちにしたという(6日の道明寺の戦いで発生したとする説もある)。神保隊は全滅し、相茂自身も討ち死にして遺臣が水野勝成らを通じて政宗に抗議するが、政宗は開き直り「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と主張したとある(『[[薩藩旧記]]』巻六)。
 
この風聞は直後から様々な興味と憶測を生み、講談本(『難波戦記』)では後藤隊休息中の神保隊に有無を言わさずに銃撃を加えたとする説や、手柄を妬んでの味方討ちとする説も書かれている。ただし、政宗がこの事件について咎めを受けた記録は無く、幕府の記録([[寛政重修諸家譜]])にも「(神保相茂は)奮戦して死す」とのみ記述されており、幕府が宗に配慮し抗議を黙殺した、あるいは水野家家中への味方討ちに尾ひれが付いた伝聞が広まった可能性などが考えられる。(詳細は[[神保相茂]]の項を参照)
 
戦後の論功行賞で[[伊予国]]の内で10万石が政宗の庶長子である[[伊達秀宗]]に与えられた([[宇和島藩]])。
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