「郡山藩」の版間の差分

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その姫路より入れ替わりで[[本多政勝]]が15万石で入る。ところがこの時、後継者を巡って[[九・六騒動]]が起こった。[[寛永]]15年([[1638年]])末、[[本多政朝]]([[徳川四天王]]で有名な[[本多忠勝]]の孫)が病死した。政朝には嫡子[[本多政長|政長]]、及び次男[[本多政信|政信]]がいたが、政長はまだ6歳であったため、跡を継がせるわけにはいかなかった([[本多氏]]には家訓として幼君に家督を継がせてはならぬという掟があった)。そこで政朝は、従弟の政勝に家督を譲り、政長成長の暁には家督を政長に譲るようにと遺言を残していたのである。
 
ところが、本来なら家督が巡る機会など無かった政勝は、次第にこの遺言を無視して自分の息子である[[本多政利|政利]]に家督を譲りたいと思うようになった。そこで政勝・政利父子は時の[[大老]]・[[酒井忠清]]に取り入って、自らが家督を継ごうと画策し始める。これを見た本多氏の忠臣・[[都築惣左衛門]]は政勝に対して、一刻も早く家督を成長した政長に譲るように要請する。これにより、政勝はしぶしぶ政長を養嗣子と定めたが、政利の家督への野望は断ち切れず、[[寛文]]11年([[1671年]])に政勝が死去すると、即座に酒井忠清に取り入って裏工作を行なった。そして幕府の裁定により、所領15万石のうち9万石を政長が、残り6万石を政利が継ぐようにと命じられた。この9万石、6万石の[[分地]]により、この騒動は「九・六騒動」と呼ばれている。
 
ちなみにこの騒動はここで終焉したように言われているが、実はこの後も続いた。15万石全てを相続できなかったことに不満を抱いた政利は、[[延宝]]7年([[1679年]])夏、政長を毒殺してしまったのである。これにより政利は15万石全てを相続できると思ったのであろうが、幕府の再びの裁定は、政長の後継ぎである[[本多忠国]](忠勝の子・[[本多忠政]]の外曾孫)が15万石と家督を相続した上で[[陸奥国]][[福島藩]]へ移封となり、政利は[[播磨国]][[明石藩]]への移封を命じられ、政利の野望は見事に打ち砕かれた。これは、政利とつながっていた大老・酒井忠清がこの頃になると権勢を失って失脚していたためであった。そして[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])政利は政長毒殺などそれまでの悪事が全て露見して所領没収の上、[[三河国]][[岡崎藩]]の牢獄に入獄し、同地で死去してしまった。悪行の報いの上で、この騒動はようやく終結したのであった。