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|所在地 = {{JPN}}<br />[[京都府]][[京都市]][[左京区]]
|山系 = 比叡山系
|種類 =
|初登頂 =
}}
'''如意ヶ嶽'''(にょいがたけ<ref>『京都市の地名』、『東山三十六峰 -京都案内記-』、『角川日本地名大辞典』などによれば、濁らない。</ref>、にょいがだけ)は[[日本]]の[[京都]]、[[東山]]に存在する[[山]]。標高472メートルで、山頂は京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町。他の表記・呼称は如意ヶ嶽、如意嶽、如意岳、如意ヶ峰(にょいがみね)、如意山(にょいやま)など。また如意ヶ嶽は[[京都市]][[左京区]]と[[滋賀県]][[大津市]]の境ともなっており、鹿ヶ谷から池ノ谷地蔵を経て園城寺へ至る山道は「如意越」(にょいごえ)と呼ばれ、これは京と[[近江]]の近道とされ<ref name = shouwa />[[如意ケ嶽の戦い]]など合戦の舞台になったことがあるほか、[[城跡]]も残っている(後述)。また古来より信仰を集めた山であり、山中にはかつて大規模な山岳寺院・如意寺(にょいじ)が在った。
 
支峰(西峰)として標高465.4メートル<ref group = *>466メートルとの表記も一般的。国土地理院の平成9年の1/10000地図では465.95メートル。国土地理院のwebによる地図閲覧サービスでは2012年5月現在、465.4メートル。京都市計画局平成19年1/2500の地図では465.44メートル。</ref>の'''大文字山'''(だいもんじやま)があり<ref>『京都 大文字五山送り火』</ref>、8月16日に執り行われる京都の伝統行事、[[五山の送り火]]の大文字として著名であり、逸話も多い。この大文字山はその山上から京都市内を一望でき、ハイキングコースとしても人気がある。本項では如意ヶ嶽と同時に支峰の大文字山などもせて解説する。<!--
京都市都市計画局 平成19 1/2500地図「大文字山」によれば、如意ヶ嶽山頂付近は471.9m。--><!--
 
<!-- 京都市都市計画局 平成19 1/2500地図「大文字山」によれば、如意ヶ嶽大文字山の山頂付近また471.9m。三角点はおおよそ左京区鹿ヶ谷大黒谷町と左京区鹿ヶ谷菖蒲谷町の境目であるが??-->
<!-- 京都市都市計画局 平成19 1/2500地図「大文字山」によれば、大文字山の山頂または三角点はおおよそ左京区鹿ヶ谷大黒谷町と左京区鹿ヶ谷菖蒲谷町の境目であるが?? -->
 
== 概要 ==
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[[File:Nyoigatake from otsu.jpg|thumb|220px|大津市から見た如意ヶ嶽 - 長良山。]]
[[File:Nyoigatake_map_001.png|thumb|220px|山中の地図。送り火の火床は慈照寺と大文字山山頂の中間辺り。]]
京都東山の一峰で、東山の主峰<ref>『角川日本地名大辞典』、『京都市の地名』、竹村俊則『新撰京都名所図会』または『昭和京都名所図会』、京都観光Navi など。『東山三十六峰 -京都案内記-』は、明治時代までは第一峰とされていたとし、『雍州府志』では東山の頂、『京都坊目誌』では東山の主山。</ref>。標高472メートル<!-- ちなみに『京都坊目誌』「如意ヶ嶽」では最高所を椿が峰と呼ぶとするが、通常、椿が峰は如意ヶ嶽の南の別の山を指す。1952年の竹村俊則「如意寺跡をたづねて」では大文字山の最高峰であるとしている。 坊目誌でも大文字山と言う意味で如意ヶ嶽としているのか。なお、「50とれんち」でも言及されているが、園城寺/近江の国にとっては如意ヶ嶽は如意ヶ嶽であり、京都側の様な混乱はようである。この辺り記事で言及できるかは将来の課題。-->。比叡山を東山に含むや否やについては諸論あるが、含めないとした場合、最高峰が如意ヶ嶽である<ref group = *>東山三十六峰はもとより定義が曖昧なものであり三十六とう数字も単に「数が多い」という意味しかない。1957年京都新聞編集局『東山三十六峰 -京都案内記-』でも比叡山を含めるや否やの問題は議論が有るものとしている。ただし同書では本来は如意ヶ嶽が北限ではないのかとしながらも、「現代」(1957年当時)においては最早比叡山を含めることが市民権を得ているとしている (p.15)。</ref>。<!-- 2012年現在は比叡山も含むとする文献が多い感触。少々古くなると1936 『東山国有林風致計画』では一般には如意ヶ嶽以南。1957『東山三十六峰 -京都案内記-』では、比叡山を含めることに抵抗があることを紹介。-->京都府と[[滋賀県]]の県境に位置し、山域は北白川、浄土寺、鹿ヶ谷にまたがる。京都側の麓はおおよそ、[[今出川通]]や[[丸太町通]]の東端。京都市[[左京区]][[北白川]]、[[銀閣寺]]<!-- 寺の正式名称は言うまでもなく慈照寺であるが、地名としては銀閣寺なのでこう記す。-->、[[浄土寺]]、[[鹿ヶ谷]]あたり。滋賀県側はおおよそ[[大津市]]、[[長等山]]、[[園城寺]]近辺。北は[[白川 (淀川水系)|白川]]の上流部を挟み[[比叡山]]支峰四明岳、南は[[南禅寺]]、[[山科区]]となっている。
京都府と[[滋賀県]]の県境に位置し、山域は北白川、浄土寺、鹿ヶ谷にまたがる。京都側の麓はおおよそ、[[今出川通]]や[[丸太町通]]の東端。京都市[[左京区]][[北白川]]、[[銀閣寺]]<!-- 寺の正式名称は言うまでもなく慈照寺であるが、地名としては銀閣寺なのでこう記す。-->、[[浄土寺]]、[[鹿ヶ谷]]あたり。滋賀県側はおおよそ[[大津市]]、[[長等山]]、[[園城寺]]近辺。北は[[白川 (淀川水系)|白川]]の上流部を挟み[[比叡山]]支峰四明岳、南は[[南禅寺]]、[[山科区]]となっている。
 
五山の送り火の筆頭、大文字として著名で、また山中にかつて園城寺(三井寺)の末寺であった「如意寺」(にょいじ)なる大規模な寺院が存在するなどしており、現在でも山中には信仰の対象となる施設が多い。また山上からの眺望は素晴らしいものである<ref name = shouwa>『昭和京都名所図会』</ref>。
 
名称の語源については諸説あるが、ひとつは『諸社根元記』に曰く、''「日神岩戸を出てさせたまひてその御光顕れ出てたりけるを、八百万神悦びて皆意のごとくなると宣ひしより如意山と名付く」''が名称の元([[天照大神]]が[[天の岩戸]]から出るやその御光により[[八百万の神]]は喜び皆意の如くなる)<ref>斜体部は『東山連峰に思う』p.50より引用</ref>というもの。今ひとつは先述の「如意寺」が由来であるとの説<ref name = shouwa /><!-- つまりは如意ヶ嶽に在った寺だから如意寺なのか、如意寺の在った山だから如意ヶ嶽なのかという順番の問題。-->。なお、古い文献では、如意の山、如意が峰などのほか、『扶桑京華志』では「如意宝山」、『日次紀事』では「東山浄土寺山」<ref group = *>ただし同じ著者の『雍州府志』ではこれは如意ヶ嶽とは別の山。</ref>、などの記述が見られる。『雍州府志』「如意嶽」ではこれを東山の頂とし、如意の瀑もこことしている。しかしこちらでは送り火の言及はなく別項目である「慈照寺山」で送り火に言及している<!-- 今で言う所の大文字山を慈照寺山としているのかも。-->。
なお、古い文献では、如意の山、如意が峰などのほか、『扶桑京華志』では「如意宝山」、『日次紀事』では「東山浄土寺山」<ref group = *>ただし同じ著者の『雍州府志』ではこれは如意ヶ嶽とは別の山。</ref>、などの記述が見られる。『雍州府志』「如意嶽」ではこれを東山の頂とし、如意の瀑もこことしている。しかしこちらでは送り火の言及は無く別項目である「慈照寺山」で送り火に言及している<!-- 今で言う所の大文字山を慈照寺山としているのかも。-->。
 
大文字山山頂は如意ヶ嶽山頂の西方1.3キロメートル強の位置にあり<ref name = setsumei />、標高465.4メートル。三等[[三角点]]が設けられている。如意ヶ嶽と大文字山は混同されがちであるが、現在では別の山である。京都市内からは如意ヶ嶽は全く見えず、大の字の見える山は、西側の大文字山である<ref name = setsumei>『大文字送り火 説明資料』</ref><ref name = miura>『東山三十六峰を歩く』</ref>。
 
古くは両山を同一視する向きが強く、この周囲の山塊を如意ヶ嶽と呼んでおり<ref name = kadokawa />、江戸時代の書物では「如意ヶ嶽で送り火が行われる」<ref>『東山三十六峰を歩く』で、[[本居宣長]]([[宝暦]]6-7年、おおよそ1750年代)『在京日記』、[[百井塘雨]]([[寛政]]年間、おおよそ1790年代)『笈埃随筆』の例が紹介されている。</ref>、如意ヶ嶽を俗に大文字山と言う<ref>『花洛名勝図会』「如意ヶ嶽」</ref>などとった例が見られた。1791年([[寛政]]3年)、[[神沢貞幹]]の『[[翁草]]』では、如意峰と、大の字の持った浄土寺山の二山が並立している図版が掲載されている。その後「大文字の送り火」が定着するにつれ、それが行われる支峰が独立し大文字山と呼称されるようになったという<ref name = kadokawa />。
 
近年も混同は続いており、両山は同じものであるとも<ref name = miura />、もともと如意ヶ嶽であったが「大文字」の送り火が著名になり、大文字山と呼ばれるようになったとも<ref name = miura />如意ヶ嶽の西側または中腹の通称が大文字山であるとも<ref>『京の大文字ものがたり』p.68 (1990)、『東山国有林風致計画』p.2 (1936)</ref>いう。大文字保存会内でも同一視する者がいるなどするという<ref name = setsumei />。なお2003年の資料によれば、大文字保存会は公式には、送り火を行う山を「大文字山」としている<ref name = setsumei /><ref name = kadokawa /><ref name = omou>『東山連峰に思う』</ref><ref name = miura /><ref name = siryou_shishigatani>『史料 京都の歴史 8』p.171「鹿ヶ谷村」</ref>。
<ref name = kadokawa />
<ref name = omou>『東山連峰に思う』</ref>
<ref name = miura />
<ref name = siryou_shishigatani>『史料 京都の歴史 8』p.171「鹿ヶ谷村」</ref>
 
== 山容・登山 ==
如意ヶ嶽・大文字山界隈はハイキングコースとして人気がある<ref name = kadokawa>『角川日本地名大辞典』</ref>。山頂までは様々なルートがあり、また京都市から大津市まで踏破することも可能であり、鉱物収集コースとしても有用なものである<ref name = gankou /><ref name = 25yama/><ref name = trail />。特に火床からの京都方面の眺望は素晴らしいものであり、「京洛第一」との呼び名もあり<ref name = sikori>『東山三十六峰を眺め心のしこりを晴らしましょう』</ref>、送り火が行われる五山の内、他の四山を全て眺めることができる<ref name = daimono37/><ref name = yamaaruki />。山頂からは天候が良ければ大阪の高層ビルを視認できる場合もある<ref name = yamaaruki />。
特に火床からの京都方面の眺望は素晴らしいものであり、「京洛第一」との呼び名もあり<ref name = sikori>『東山三十六峰を眺め心のしこりを晴らしましょう』</ref>、送り火が行なわれる五山の内、他の四山を全て眺めることができる<ref name = daimono37/><ref name = yamaaruki />。山頂からは天候が良ければ大阪の高層ビルを視認できる場合もある<ref name = yamaaruki />。
 
一帯は[[レクリエーションの森]](東山風景林)、第一種[[風致地区]]、大文字山歴史的風土保存地区、東山[[鳥獣保護区]]、風致地区特別修景地域(おおよそ慈照寺から火床にかけて)などに指定されており<ref>『2010 京都市都市計画地図集』pp.10-11、『京都市鳥獣保護区等位置図 平成23年度』および付属冊子</ref>、市内から火床を見て向かって左手、銀閣寺山または月待山を中心とする23.89[[ヘクタール]]については銀閣寺山国有林となっている<ref group = *>明治以前は慈照寺、一部を八神社が所有していたもの。慈照寺北側の登山道から入山した場合、おおよそ千人塚(後述)あたりまでの範囲。</ref>
<ref name = fuuchi />
<ref>「京都・大阪の国有林」「京都の国有林」</ref><ref>『銀閣寺山国有林におけるマツ林再生の取組』</ref><ref name = morihiro988>フォレストニュース「森のひろば」vol.988</ref><ref>{{Cite web | url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/kyoto/katudo_hokoku/230805okuribi_ginkaku/ginkaku_seisou.html | title = 「五山の送り火」に向けて、銀閣寺山国有林の作業道を整備 | publisher = 近畿中国森林管理局 | date = 2011-8-10 | accessdate = 2012-2-26}}</ref><ref>京都府告示第639号</ref><ref>{{Cite web | url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/policy/business/sitasimou/mori_zukuri/recreation/kyoto/higasiyama.html | title = レクリエーションの森一覧 - 東山風景林 | publisher = 近畿中国森林管理局 | accessdate = 2012-4-2}}</ref>。
 
一帯は[[レクリエーションの森]](東山風景林)、第一種[[風致地区]]、大文字山歴史的風土保存地区、東山[[鳥獣保護区]]、風致地区特別修景地域(おおよそ慈照寺から火床にかけて)などに指定されており<ref>『2010 京都市都市計画地図集』pp.10-11、『京都市鳥獣保護区等位置図 平成23年度』および付属冊子</ref>、市内から火床を見て向かって左手、銀閣寺山または月待山を中心とする23.89[[ヘクタール]]については銀閣寺山国有林となっている<ref group = *>明治以前は慈照寺、一部を八神社が所有していたもの。慈照寺北側の登山道から入山した場合、おおよそ千人塚(後述)あたりまでの範囲。</ref><ref name = fuuchi /><ref>「京都・大阪の国有林」「京都の国有林」</ref><ref>『銀閣寺山国有林におけるマツ林再生の取組』</ref><ref name = morihiro988>フォレストニュース「森のひろば」vol.988</ref><ref>{{Cite web
|url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/kyoto/katudo_hokoku/230805okuribi_ginkaku/ginkaku_seisou.html
|title = 「五山の送り火」に向けて、銀閣寺山国有林の作業道を整備
|publisher = 近畿中国森林管理局
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}}</ref><ref>京都府告示第639号</ref><ref>{{Cite web
|url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/policy/business/sitasimou/mori_zukuri/recreation/kyoto/higasiyama.html
|title = レクリエーションの森一覧 - 東山風景林
|publisher = 近畿中国森林管理局
|accessdate = 2012-4-2
}}</ref>。
[[File:Daimonji gyouja.jpg|thumb|220px|行者の森の碑近辺]]
[[File:Daimonji trail 002.jpg|thumb|220px|銀閣寺北からの登山道。麓に近い部分。]]
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[[File:Daimonji trail 003 .jpg|thumb|220px|この石段を登り暫く進むと火床。]]
[[File:Daimonji sankaku.jpg|thumb|220px|大文字山 三等三角点]]
京都側からの主な入山口は、[[慈照寺]]の北側、浄土院、八神社(後述)および行者の森<ref group = *>大日如来、不動明王、役行者を祀ったもの。鎌倉初期の釈迦如来石仏も見られる。</ref><ref name = shouwa /><ref name = daimono37 />石碑辺りからのもの。眺望の良い火床までは30分程度<ref>『京都山歩き一周トレール』または『フォレストニュース「森のひろば」』vol.988による。</ref>。大文字山山頂まではさらに20分程度<ref name = trail></ref>。『フィールドガイド大文字山』によれば、山頂まで90分程度<ref>『フィールドガイド 大文字山』 p.55</ref><ref group = *>ちなみに「京都走ろう会」が開催している「大文字山ランニング」(火床まで)での優勝者は男子で9分弱、女子で11分前後となっている。</ref><ref>{{Cite web
| author = 京都走ろう会
| publisher = 京都走ろう会
| title = 第41回大文字山ランニング
| url = http://www.h2.dion.ne.jp/~krc/daimonji.htm
| accessdate = 2012-4-2}}</ref>。「大」の字の左側に出るかたちである。砂防ダム、千人塚(後述)を経由し<ref group = *>この先には頭上に送り火に使用する薪の運搬用リフトのケーブルおよび、金網による防護柵を見ることができる。</ref><ref name = yamaaruki />「大」の字の左手に到達。大文字山頂まではいましばらくの距離がある。大文字山山頂を越えしばらく東に歩を進めると「四つ辻」に到着する。
 
[[File:Daimonji roumon no taki.jpg|thumb|220px|楼門の滝]]
[[File:Daimonji shunkan.jpg|thumb|220px|俊寛僧都忠誠の碑]]
[[鹿ヶ谷]][[霊鑑寺]]、浪切不動尊付近からも入山が可能で、園城寺に至る道は如意越と呼ばれた。[[崇徳天皇|崇徳上皇]]や[[以仁王]]などが用いたゆかりがあるほか、合戦にまつわり言及されることがある。このルートは千人塚近辺で慈照寺からのルートと合流することもできるが、そちらと比較すると若干きついルートであるという<ref group = *>この如意越は『太平記』巻15などでも言及がされている。</ref>。また慈照寺からのルートに合流せず登り続けると、如意寺由来の楼門の滝(楼門の瀑布、または如意滝。高さ約10メートル)がある<ref group = *>竹村俊則『昭和京都名所図会』によれば、雨が続いて水量の増えた時は麓からこの瀑布を遠望することができるという。黒川道祐『近畿歴覧記』に曰く''「久しく雨ふるときは此の渓より瀑漲り落つ、此亦洛東之一奇観也」''。</ref>。さらに登ると、1935年9月<ref name = shouwa />または1944年<ref name = omou />に「平家物語」などにちなんで[[祇園]]十二段家西垣精之助により建てられた高さ3メートルの石碑、「[[俊寛]]僧都忠誠の碑」がある<ref group = *>もともとは麓に設置したのであるが、その後に場所を移したもの竹村俊則「如意寺跡をたづねて」では、こんな鬱蒼とした山中に山荘が在ったとは考えにくく、何故こんな所に移設されたのか真意がわからないとしている。</ref>。周辺に桜も数百本植えられ「瓶子桜」とも言われたが、1957年にはすでにその数をかなり減らしているとう。また、碑の下には[[硫黄島_(鹿児島県)|硫黄島]]の石も埋められた<ref name = higa1957 />。また近辺の谷は俊寛らの談合にちなんで「談合谷」と呼ばれ([[鹿ケ谷の陰謀]]も参照)<ref group = *>ただし『京都市の地名』によれば、現地ではここより南東にあった安祥寺の上寺跡を檀の谷と言ったことがそのちであるとする説も紹介されているが、竹村俊則は『昭和京都名所図会』で、その説はただの混同であると否定している。</ref>、これについても石碑が建てられている。このルートは火床は通らず、大岩(奇石)を経由し大文字山山頂より東の「四つ辻」に到着するかたちである<ref name = shouwa /><ref name = yamaaruki /><ref name = siryou_shishigatani /><ref name = omou/><ref name = miura/><ref name = higa1957 />
<ref name = shouwa /><ref name = yamaaruki /><ref name = siryou_shishigatani /><ref name = omou/><ref name = miura/><ref name = higa1957 />
 
[[南禅寺]]付近、[[蹴上]]の[[日向大神宮]]からの入山は脇道が多いが、これは「京都一周トレイル」の東山ルートでもあり、道標が 完備されているため<ref group = *>おおよそ東山30-33あたりから45。ただしトレイルのルートに沿うと、見晴らしの良い火床は経由できない。四つ辻より、前述の如意越、霊鑑寺のルートを下山する。</ref>、安心してハイキングを楽しむことができる。このルートも火床は経由せず、一旦は京都から見て裏手になる「四つ辻」に到達する。標高差は約413メートル。慈照寺付近に下山するとすれば、行程はおおよそ3時間ないし3時間20分程度である。<ref name = trail /><ref name = 25yama/><ref name = furusato103>『ふるさとの山103』</ref><ref>『京都一周トレイルコース公式ガイドマップ 東山』</ref><ref>『京都・滋賀 近郊の山を歩く』pp.108-113 - トレイルのルートについて。</ref>
 
[[南禅寺]]付近、[[蹴上]]の[[日向大神宮]]からの入山は脇道が多いが、これは「京都一周トレイル」の東山ルートでもあり、道標が 完備されているため<ref group = *>おおよそ東山30-33あたりから45。ただしトレイルのルートに沿うと、見晴らしの良い火床は経由できない。四つ辻より、前述の如意越、霊鑑寺のルートを下山する。</ref>、安心してハイキングを楽しむことができる。このルートも火床は経由せず、一旦は京都から見て裏手になる「四つ辻」に到達する。標高差は約413メートル。慈照寺付近に下山するとすれば、行程はおおよそ3時間ないし3時間20分程度である<ref name = trail /><ref name = 25yama/><ref name = furusato103>『ふるさとの山103』</ref><ref>『京都一周トレイルコース公式ガイドマップ 東山』</ref><ref>『京都・滋賀 近郊の山を歩く』pp.108-113 - トレイルのルートについて。</ref>。
京都側からの以上3つの登山道は大文字山東方「四つ辻」近辺で一旦合流し、大津側へ向かうのであれば、改めてさらに東に分け入る形となる。
<!-- 大文字山山頂には三等[[三角点]]があるが、1993年頃には心ないハイカーまたは登山者により著しく損壊されていた<ref>『京都百山 三角点を行く 下』</ref>。--><!-- 1993年??に新しいものに更新された様だが言及した文献が見付からず。 -->
 
京都側からの以上3つの登山道は大文字山東方「四つ辻」近辺で一旦合流し、大津側へ向かうのであれば、改めてさらに東に分け入る形となる。<!-- 大文字山山頂には三等[[三角点]]があるが、1993年頃には心ないハイカーまたは登山者により著しく損壊されていた<ref>『京都百山 三角点を行く 下』</ref>。--><!-- 1993年??に新しいものに更新された様だが言及した文献が見付からず。 -->
[[山科]]からの入山は[[山科駅]]北方、[[山科川]]の上流[[安祥寺川]]のほとり、[[毘沙門堂]]付近からのものなど。途中で南禅寺・蹴上ルートと合流し四つ辻に至り、毘沙門堂から大文字山山頂までは約90分。<ref>『ウォーキング京都』</ref><ref>『ベスト・ハイク 京滋の山』</ref>
 
[[山科]]からの入山は[[山科駅]]北方、[[山科川]]の上流[[安祥寺川]]のほとり、[[毘沙門堂]]付近からのものなど。途中で南禅寺・蹴上ルートと合流し四つ辻に至り、毘沙門堂から大文字山山頂までは約90分<ref>『ウォーキング京都』</ref><ref>『ベスト・ハイク 京滋の山』</ref>。
[[File:Nyoigatake yotsutsuji.jpg|thumb|220px|四つ辻]]
[[File:Nyoigatake top.jpg|thumb|220px|西より如意ヶ嶽山頂を望む。山頂は大阪航空局大津航空無線標識所に占有されている。]]
大文字山山頂および「四つ辻」東はおおよそ、「雨神社」(雨社大神)を通過し如意ヶ嶽山頂に至る。ただし山頂には大阪航空局大津航空無線標識所があり、立ち入りは制限されている。なお「雨神社」から北へ向かうと「池ノ谷地蔵」(後述)、「薬草園」があり<ref group = *>大文字山山頂東に「薬草園への分かれ」があり、そちらのルートを選ぶこともできる。</ref>、その北方は[[比叡平]]である。この付近から南東へ向かえば山科盆地(大津市藤尾近辺)へ、東にルートを取ると滋賀県大津市に入り、[[皇子山カントリークラブ]]近辺を経由し、[[長等山]]-園城寺に至る<ref name = trail /><!-- 大津からの入山については現時点では参考文献に示した『園城寺』や『平安時代山岳伽羅の調査研究』などで若干言及があるものを確認したのみであり、山科、特に藤尾(山科盆地内であるが、厳密には大津市である)からの入山を含め、文献による加筆を期待す。--><ref name = yamaaruki>『楽しい京の山歩き』 - 千人塚、太閤岩、登山ルート全般について。</ref><ref name = omou /><ref name = miura /><ref name = feeld>『フィールドガイド 大文字山』</ref><ref name = yama>『京都府の山』pp.108-109</ref><ref name = trail>『京都山歩き一周トレール』 - 主にインクラインよりの登山ルート、および大文字山山頂より東、大津までのルートについて</ref><ref name = 25yama>『京都府の山』 - 主にインクラインよりの登山ルートについて</ref><ref>登山道全般については国土地理院と参謀本部の地図のほか、『京都一周トレイルコース公式ガイドマップ 東山』を中心に、『京都府の山』p.109、『楽しい京の山歩き』p.29、『フィールドガイド 大文字山』pp.50-51、およびp.133の地図およびそれに付随する解説も参考とした。また四つ辻より東については『京都山歩き一周トレール』を特に参考とした。</ref>。
<!-- 大津からの入山については現時点では参考文献に示した『園城寺』や『平安時代山岳伽羅の調査研究』などで若干言及があるものを確認したのみであり、山科、特に藤尾(山科盆地内であるが、厳密には大津市である)からの入山を含め、文献による加筆を期待す。-->
<ref name = yamaaruki>『楽しい京の山歩き』 - 千人塚、太閤岩、登山ルート全般について。</ref>
<ref name = omou />
<ref name = miura />
<ref name = feeld>『フィールドガイド 大文字山』</ref>
<ref name = yama>『京都府の山』pp.108-109</ref>
<ref name = trail>『京都山歩き一周トレール』 - 主にインクラインよりの登山ルート、および大文字山山頂より東、大津までのルートについて</ref>
<ref name = 25yama>『京都府の山』 - 主にインクラインよりの登山ルートについて</ref>
<ref>登山道全般については国土地理院と参謀本部の地図のほか、『京都一周トレイルコース公式ガイドマップ 東山』を中心に、『京都府の山』p.109、『楽しい京の山歩き』p.29、『フィールドガイド 大文字山』pp.50-51、およびp.133の地図およびそれに付随する解説も参考とした。また四つ辻より東については『京都山歩き一周トレール』を特に参考とした。</ref>
 
== 地学・動植物 ==
{{節stub}}
[[File:Daimonji taikouiwa.jpg|thumb|220px|太閤岩]]
大文字山と如意ヶ嶽の稜線(おおよそ、東西のライン)を境に北側、比叡山との間を花崗岩質が占め(北白川花崗岩)<ref group = *>これを切り出したものは白川石として。風化して白川の川砂となったものは白川砂として、[[北白川]]の特産品である。大文字山には[[豊臣秀吉]]が石を切り出したとの曰くあり、1897年に[[京都大学]]の比企忠が日本で初めて褐簾石を発見した石切場跡、「太閤岩」なるものもある。</ref>、そこを[[白川 (淀川水系)|白川]]が流れ、白川扇状地を形作る。南側が[[丹波層群]]と呼ばれる[[堆積岩]]。その境目は[[ホルンフェルス]]となっている。すなわち風化しやすい花崗岩が浸食され、そうでない部分がそのまま残った結果、如意ヶ嶽・大文字山から比叡山にかけての山容が形作られたものである<ref name = gankou>『大文字山の岩石と鉱物』<!-- 何分1960年代の文献であり、検証容易性も低めであるため、可能であれば更改。--></ref><ref>『フィールドガイド 大文字山』 p.132「岩石・鉱物」(鈴木博之)または 『大文字山を歩こう』p.170「山の生い立ち」、p.174「地学散歩」(鈴木博之)</ref><ref>『大文字山を歩こう』p.11または『大文字山を歩こう』p.17「大文字山に登る」(久山喜久雄)</ref><ref name = siryou_shishigatani /><ref>『京都の地学図鑑』pp.179-193</ref><ref name = yamaaruki />
<ref name = gankou>『大文字山の岩石と鉱物』<!-- 何分1960年代の文献であり、検証容易性も低めであるため、可能であれば更改。--></ref>
<ref>『フィールドガイド 大文字山』 p.132「岩石・鉱物」(鈴木博之)または 『大文字山を歩こう』p.170「山の生い立ち」、p.174「地学散歩」(鈴木博之)</ref>
<ref>『大文字山を歩こう』p.11または『大文字山を歩こう』p.17「大文字山に登る」(久山喜久雄)</ref>
<ref name = siryou_shishigatani />
<ref>『京都の地学図鑑』pp.179-193</ref>
<ref name = yamaaruki />
 
大文字山・如意ヶ嶽(あるいは東山)については[[広葉樹]]を中心多様な植物が見られるが、北部については前述のとおり花崗岩地帯である。この区域については風化が激しく植物は[[極相]]に[[遷移 (生物学)|遷移]]するには至らず、また土壌も痩せており、[[アカマツ]]、[[コナラ]]などが多く見られる[[天然林|二次林]]となっている<ref group = *>『東山国有林風致計画』によれば、1936年頃には東山の国有林の61パーセントをアカマツが占めていた。</ref>。また、酸性土壌によく見られる[[ツツジ科]]植物なども生育し、アカマツ林ではかつては[[マツタケ]]も多く見られていたとう。その他[[スギ]]や[[ヒノキ]]の植林地などもある<ref name = fuuchi>『東山国有林風致計画』</ref><ref name = hisayama2003>『大文字山を歩こう』p.26「大文字山の植物観察」(久山慶子)</ref><ref>『フィールドガイド 大文字山』 p.58「植物」(村田源)、p.71「きのこ」(吉見昭一)</ref><ref>『大文字山を歩こう』p.56「きのこの野外探訪」(吉見昭一)、p.72「フィールドノート観察記 1」(マツタケについて)</ref><ref>『京都・火の祭事記』p.11 (マツタケについて)</ref>
<ref name = fuuchi>『東山国有林風致計画』</ref>
<ref name = hisayama2003>『大文字山を歩こう』p.26「大文字山の植物観察」(久山慶子)</ref>
<ref>『フィールドガイド 大文字山』 p.58「植物」(村田源)、p.71「きのこ」(吉見昭一)</ref>
<ref>『大文字山を歩こう』p.56「きのこの野外探訪」(吉見昭一)、p.72「フィールドノート観察記 1」(マツタケについて)</ref>
<ref>『京都・火の祭事記』p.11 (マツタケについて)</ref>
 
大文字山に生息している哺乳類は大型では[[ニホンザル]]<ref group = *>近隣の比叡山には、ニホンザルの群れが生息している。この辺りは京都東管理ユニットに属する。</ref><ref>『京都府特定鳥獣保護管理計画 ニホンザル』2011年</ref>[[イノシシ]]、[[キツネ]]、[[タヌキ]]、[[ニホンジカ]]から、[[ムササビ]]、[[テン|ニホンテン]]、数種類の[[コウモリ]]。小型では何種かの[[ネズミ]]に至るまで、18種ないし20種程度。最も良く見られるのはムササビであるとう。野鳥も多く見られ、『フィールドガイド 大文字山』にも数十種類が挙げられている<ref>『フィールドガイド 大文字山』 p.99「けものたち」(川道美枝子、川道武夫)(この文献では哺乳類は18種)、p.111「野鳥」(久山喜久雄)</ref><ref>『大文字山を歩こう』p.145「里山の動物たち」(久山喜久雄)(この文献では哺乳類は20種程度)</ref>
<ref>『フィールドガイド 大文字山』 p.99「けものたち」(川道美枝子、川道武夫)(この文献では哺乳類は18種)、p.111「野鳥」(久山喜久雄)</ref>
<ref>『大文字山を歩こう』p.145「里山の動物たち」(久山喜久雄)(この文献では哺乳類は20種程度)</ref>
 
昆虫類は[[クワガタムシ]]などが見られる。大文字山に生息する[[クロシジミ]]は京都では他にこの近辺の[[音羽山]]、[[比叡山]]にしか生息しておらず、絶滅の危機にさらされているという<ref>『フィールドガイド 大文字山』 p.85「昆虫」(塚本珪一)</ref>
<ref>『フィールドガイド 大文字山』 p.85「昆虫」(塚本珪一)</ref>
 
== 送り火 ==
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[[File:Daimonji 1kaku.jpg|thumb|220px|第1画を金尾から望む。銀閣寺からの登山道を上りきった人物が見える。]]
[[File:Daimonji lift.jpg|thumb|220px|薪を運搬するリフト。]]
毎年8月16日<ref name = shinsen>『新撰京都名所図会』</ref>(かつては旧暦の7月16日であった)、19時半頃には大の字の中心(金尾、カナワ、カナオ、カネオ)にある弘法大師堂<ref name = yamaaruki />で行事・般若心経の読経が開始され<ref name = hogozaidan2000 />、20時から「大」の字の送り火が行われる。運営は大文字山麓、浄土寺界隈の民間人らの組織する保存会が行っている(後述)<ref group = *>この火床付近の海抜は『京都一周トレイル 東山』によれば330メートル、『大文字 五山の送り火』p.65によれば333メートル。</ref>。ちなみに火床周辺は昭和13年/26年の地形図では「大文字霊場」と記されている。また『京都故事物語』によれば、辺りの面積は7000[[坪]]程度であるとう。この送り火は本来の[[盂蘭盆]]の「送り火」としての意味だけではなく、都の安寧や悪霊退散を願うものでもあったともいい<ref name = shinsen />、家内安全や無病息災なども願う伝統的・包括的な宗教行事である<ref name = setsumei /><ref name = daimono68>『京の大文字ものがたり』pp.68-</ref>。
 
「大」の字は第一画の横棒を一文字とい80メートル、第二画の左払いを北流れとい、一文字より上に突き出した字頭(じがしら)部を含め160メートル、第三画の右払いを南流れと言い120メートル。火床の数は大の字中心より上が9、左が8、右が10、左払いが20、右払いが27。これに大の字中心の「金尾」<ref>『京の大文字ものがたり』p.51</ref>を加え合計で75。
 
他に妙法、左大文字、船形、鳥居形でも行われ、これらを合わせて「[[五山送り火]]」とし、京都の夏の風物詩のひとつである。現在は20時ちょうどに、五山の先頭を切ってこの大文字が全火床一斉に点火され、25分から30分程度燃焼する<ref name = setsumei /><ref group = *>1957年 田中緑紅『京の送火 大文字』p.10によれば、当時は大文字が最後に点火されていた。p.22によれば点火時刻は20時13分。1976年の駒敏郎『大文字 五山の送り火』p.66でも、20年くらい前(1956年くらい)までは大文字は五山の中でも「横綱格」であるので、他の四山が点火されるのを見定めてから点火したとのことである。ちなみに「左大文字」は一斉ではなく筆順に点火される。</ref>。なお、火床の所在地は京都市左京区浄土寺七廻り町1<ref name = kankou1986 /><ref name = kankou1986 /><ref name = hogozaidan2000 /><ref group = *>大の字の各字画の長さについては文献により若干の違いがみられる。本項では昭和40年代に京都市当局が実測し、大文字保存会が採用している数値を示している(『大文字送り火 説明資料』など)。</ref>。
なお、火床の所在地は京都市左京区浄土寺七廻り町1<ref name = kankou1986 />。
<ref name = kankou1986 /><ref name = hogozaidan2000 /><ref group = *>大の字の各字画の長さについては文献により若干の違いがみられる。本項では昭和40年代に京都市当局が実測し、大文字保存会が採用している数値を示している(『大文字送り火 説明資料』など)。</ref>
 
大文字山で燃やされるのは薪(アカマツ)が600束、松葉が100束、麦わらが100束。要するアカマツは25本、約4トン<ref>『京都・火の祭事記』p.15</ref>。前日の8月15日正午頃より、慈照寺の門前で[[護摩木]]を受け付けている<ref>護摩木に名前と病名を書き、それを燃やすことにより病が消えると言われている。燃やした後の燃え木も魔除けとなる。</ref><ref name = kankou2005 /><ref group = *>『京都故事物語』では、[[茄子]]に穴を開けて大文字を見ると目を患わない、大文字を盃に映してから飲み干すと[[中風]]を患わない、などのまじないも紹介されている。</ref>。薪については主に大文字保存会が管理する、大の字周辺およびそれより上部の約12ヘクタールに及ぶ共有林のものが使用されるが<ref group = *>古くは浄土寺村の共有林。現在は保存会が維持管理。</ref><ref name = anzai>安西幸夫 1995 『大文字送り火』</ref>、近年[[マツクイムシ]]による被害や、時代の流れによるアカマツ林の手入れ不足・土壌の肥沃化(アカマツは痩せた土壌を好む)による影響などもありアカマツが減少。植林を行ったり、隣接する銀閣寺山国有林から融通されるなどして対応している<ref>「銀閣寺山国有林におけるマツ林再生の取組」 - アカマツの融通、共有林・国有林などについて</ref><ref>「銀閣寺山国有林におけるマツ林再生について」- アカマツの融通、共有林・国有林などについて</ref><ref name = morihiro988 /><ref>『京都・火の祭事記』p.7</ref>
<ref>「銀閣寺山国有林におけるマツ林再生の取組」 - アカマツの融通、共有林・国有林などについて</ref>
<ref>「銀閣寺山国有林におけるマツ林再生について」- アカマツの融通、共有林・国有林などについて</ref>
<ref name = morihiro988 />
<ref>『京都・火の祭事記』p.7</ref>
 
各火床については古来は杭を立てそれに松明を結わえたものとなっていたが、[[寛文]]・[[延宝]]年間(1661-1681年頃)には、薪を積み上げる形に移行した。近年までは単に土を掘ったところに薪を井桁に積み上げたものであったが、1969年以降、火床については細長い[[大谷石]]を二つ並べたもの(上から見ると「=」の形状)に薪を井桁に積み上げるかたちとなっている。薪の間には松葉を詰め、周囲には麦わらを立てかけ、点火を行っている<ref name = kankou1986 /><ref name = hogozaidan2000 /><ref>『大文字山を食べる』</ref><ref>『京の大文字ものがたり』p.69-71</ref>。
 
各戸の受け持ちは原則として1戸が2床で、負担を均等化するためか、古くから交代制になっている<ref group = *>『京の大文字ものがたり』によれば、一巡すれば一年の休み。</ref><ref name = daimono68 /><ref name = anzai />。「大」の中心である「金尾」は4戸<ref group = *>『京の大文字ものがたり』p.71によれば、4,5戸。</ref>、「大」の最上部、字頭のものは2床一組でこれを2戸で受け持つやはり大きなもの<ref group = *>『大文字送り火 説明資料』によれば、1973年頃は金尾は5戸、字頭は1戸で担当していたが、2003年頃にはそれぞれ4戸、2戸となっている。</ref><ref name = setsumei /><ref>『京都・火の祭事記』</ref><ref name = hogozaidan2000 />。また、担当した火床の燃え方が悪いとその家に不幸が続くとの言い伝えもあるとう<ref name = kojimono>『京都故事物語』</ref>。
 
薪は毎年2月に切り出され<ref group = *>『京都・火の祭事記』によれば樹齢30-40年。『大文字送り火 説明資料』によれば90-100年(ただしこれは1973年の情報)、『フォレストニュース「森のひろば」』vol.988によれば燃焼時間の関係から樹齢80年程度。</ref>、4月から翌5月まで火床近くの倉庫で乾燥させ、麓まで下ろし各家庭で保管。8月16日に再度火床まで運搬する運びとなる<ref name = hinosai26>『京都・火の祭事記』p.26</ref><ref name = setsumei />。
 
年一回の送り火のために多大の準備を要し、切り出しのほかにも各所の下草や雑木の刈り取り、近年比較的入手困難な麦わらの確保<ref name = anzai />、火床の維持管理など多岐にわたるものであり、また地元民も現在は農民とうわけではなく作業への慣れの問題もあり、負担は大きい。2004年『京都・火の祭事記』によれば中心メンバーはほぼ毎週の[[土曜日|土曜]][[日曜日|日曜]]、その他は年間平均約10日をボランティアに充てている<ref name = anzai /><ref name = hogozaidan2000 /><ref name = daimono68 /><ref name = hinosai26 />。
 
送り火当日の作業人員は総計約300名<ref name = setsumei />。雨への備えのため、火床への薪上げは当日まで行われない。かつて作業者は1週間前から沐浴・酒肉断ちなどを行い<ref>『京の送火 大文字』p.21。1957年の文献であるが、この頃は作業人員は80人程度。</ref>、当日には1束10キログラムの薪束を一人2束担いで1.5キロメートルに及ぶ山道を4回登ったとうが<ref>『大文字 五山の送り火』p.66</ref>、1972年にはこれに代わり約400メートルのリフトが設置され、途中からはそれを用いている<ref group = *>1972年の京都新聞によれば、このリフトの始点までは小型トラックで運搬をしていたとのことであり、積み込み時の写真も掲載されている。</ref><ref>『京都新聞』1972年8月16日 夕刊</ref>。
 
また送り火当日には事故に備え、消防および消防団の協力もられているほか、京都市文化財保護課職員による立ち会いもあり<ref name = hogozaidan2000 /><ref name = daimono68 />、関係者が消火を確認してから下山するのは、22時以降になると<ref name = hisayama2003/><ref>京都観光協会webサイト「五山の送り火」</ref><ref>京都観光Navi「京都五山送り火」</ref><ref name = feeld166>『フィールドガイド 大文字山』p.166 または『大文字山を歩こう』p.17「大文字送り火」</ref><ref>{{Cite news
|newspaper = 読売新聞
<ref name = hisayama2003/><ref>京都観光協会webサイト「五山の送り火」</ref>
|year = 2008
<ref>京都観光Navi「京都五山送り火」</ref>
|pages = 朝刊27面
<ref name = feeld166>『フィールドガイド 大文字山』p.166 または『大文字山を歩こう』p.17「大文字送り火」</ref>
<ref>{{Cite news | newspaper = 読売新聞 | year = 2008 | pages = 朝刊27面 | title = 送り火に松枯れの薪}}</ref>
}}</ref><ref name = hogozaidan2000>『京都 大文字 五山送り火』 pp.18-24 - 主に火床の詳細や数、薪、各戸の受け持ち件数について。</ref><ref>『京名物 大文字』pp.6-7、pp.50-51。1950年当時の点火の模様、火床の造営など。</ref>。
<ref>『京名物 大文字』pp.6-7、pp.50-51。1950年当時の点火の模様、火床の造営など。</ref>
 
送り火の由来については諸説あり様々な文献で様々な説が見られるが、送り火とう性質上、[[仏教]]が伝来し民衆に深く根付いた時代より後のことであると考えられる<ref name = kankou1986>京都市文化観光局文化観光部文化財保護課、大文字五山保存会連合会、1986、『京の伝統行事 大文字五山送り火』</ref><ref name = kyouraku>『京洛物語』</ref>。また公式な記録が見られないことから、為政者・権力者の側ではなく、民衆の側より発生したのではないかと見る向きもある<ref>『京の大文字ものがたり』p.9</ref>。送り火について言及している最も古い文献は慶長8年(1603(1603)の『慶長日件録』7月16日に「山々灯を焼く」<ref group = *>原文は''「及晩冷泉亭ヘ行、山々焼火見物ニ東川原へ出了」''。山本武夫校訂、1981年、『資料纂集 慶長日件録 第一』、続群書類従完成会、p.49、より引用。</ref>と記されているものである<ref name = kankou1986 />。その後、江戸時代に発刊された各種の都案内本の類ではほとんどで送り火への言及が見られたが、何故か地図への反映は遅れ、駒敏郎によれば1709年([[宝永]]6年)の「京絵図」が最も古い<ref>『大文字 五山の送り火』p.29</ref>。
*足利義政説、延徳元年(1489年)、足利義政が病によってその息子である[[足利義尚]]を亡くした時に、相国寺の[[横川景三]]らによってなされたというもの。『山城名跡志』など。大文字山が慈照寺領であったことを示す資料があるといった意味で有力視されている<ref name = miura /><ref group = *>相国寺150世[[維明周奎]]がこれをしたためているという。</ref><ref name = kankou2005 /><ref name = setsumei />。
*[[空海]](弘法大師)説。平安初期、弘仁年間に悪病が流行したとき、弘法大師が山頂でゴマ行法を行ったというもの。また『都名所図会』、『花洛名勝図会』では、浄土寺が炎上した時に本尊である阿弥陀仏がこの峰に飛び去り光明を放ったものを、弘法大師が大文字に改めた、と記されている<ref name = shinsen /><ref>『雍州府志』</ref><ref name = kankou2005>京都市観光協会、大文字送り火協賛会 2005『京都大文字五山送り火』</ref>。その他にも空海説はいくつか見られるものの、弘仁年間より近世に至るまで大文字について触れられている文献が無く、この様な古い時代から行われていたとも考えにくいといった意味で、真実性については疑問が残る<ref name = kankou1986 /><ref name = kankou2005 /><ref>『京の大文字ものがたり』p.53</ref>。ただし前述のように、火床中心部に弘法大師が祀られていることも事実である。
*[[近衛信尹]]説。[[中川喜雲]]、1662年『案内者』によれば、''「大文字は三藐院殿の筆画にてきり石をたてたりといふ。」''。先述『慶長日件録』が1603年、近衛信尹の没年が1614年と時代が近いことを考慮すると有力な説であるという<ref name = kankou1986 /><ref name = daimono37>『京の大文字ものがたり』p.37「文献にみる大文字の起源」</ref>。<!-- 「風俗研究 160」で江馬務による言及もあると言うが未確認。-->
また『新撰京都名所図会』では、如意ヶ嶽(大文字山)が送り火の山として選ばれた理由を、この山裾一帯が埋葬地であったが故に、それにふさわしかったのではないかとしており<ref group = *>「如意寺跡発見への挑み 1」でも、火床から大文字山山頂にかけて[[経塚]]が点在しており(如意ヶ嶽経塚群)、古来より神聖な山であったようだとしている。<!-- 他に「50とれんち」でも如意ヶ嶽が古くから信仰の対象であったとの言及がある。--></ref>、『京都市の地名』ではそれに加えて、この山が洛中のどこからでも見ることができたからではないかともしている。
 
「大」の字の意味についてもやはり諸説あり、「大」の字を人の五体に見立てたとの説<ref name = shinsen /><ref name = daimono63>『京の大文字ものがたり』p.63「大文字送り火はなぜ『大の字』か」</ref>もあれば、[[仏教]][[法相学]]でいうところの「四大」、すなわち地、水、火、風が由来であるとも言われ<ref name = daimono63 /><ref name = shikori>『東山三十六峰を眺め心のしこりを晴らしましょう』</ref>、「大」の字が[[五芒星]]を表す、さらにはこの五芒星は[[北辰]]、すなわち[[北斗七星]]または[[北極星]]になぞらえたものであるとの説もある<ref name = daimono63 />。
* 足利義政説、延徳元年(1489年)、足利義政が病によってその息子である[[足利義尚]]を亡くした時に、相国寺の[[横川景三]]らによってなされたと言うもの。『山城名跡志』など。大文字山が慈照寺領であったことを示す資料があると言った意味で有力視されている<ref name = miura /><ref group = *>相国寺150世[[維明周奎]]がこれをしたためていると言う。</ref><ref name = kankou2005 /><ref name = setsumei />。
 
* [[空海]](弘法大師)説。平安初期、弘仁年間に悪病が流行したとき、弘法大師が山頂でゴマ行法を行なったというもの。また『都名所図会』、『花洛名勝図会』では、浄土寺が炎上した時に本尊である阿弥陀仏がこの峰に飛び去り光明を放ったものを、弘法大師が大文字に改めた、と記されている<ref name = shinsen /><ref>『雍州府志』</ref><ref name = kankou2005>京都市観光協会、大文字送り火協賛会 2005『京都大文字五山送り火』</ref>。その他にも空海説はいくつか見られるものの、弘仁年間より近世に至るまで大文字について触れられている文献が無く、この様な古い時代から行なわれていたとも考えにくいと言った意味で、真実性については疑問が残る<ref name = kankou1986 /><ref name = kankou2005 /><ref>『京の大文字ものがたり』p.53</ref>。ただし前述のように、火床中心部に弘法大師が祀られていることも事実である。
 
* [[近衛信尹]]説。[[中川喜雲]]、1662年『案内者』によれば、''「大文字は三藐院殿の筆画にてきり石をたてたりといふ。」''。先述『慶長日件録』が1603年、近衛信尹の没年が1614年と時代が近いことを考慮すると有力な説であると言う<ref name = kankou1986 /><ref name = daimono37>『京の大文字ものがたり』p.37「文献にみる大文字の起源」</ref>。<!-- 「風俗研究 160」で江馬務による言及もあると言うが未確認。-->
 
また『新撰京都名所図会』では、如意ヶ嶽(大文字山)が送り火の山として選ばれた理由を、この山裾一帯が埋葬地であったが故に、それにふさわしかったのではないかとしており<ref group = *>「如意寺跡発見への挑み 1」でも、火床から大文字山山頂にかけて[[経塚]]が点在しており(如意ヶ嶽経塚群)、古来より神聖な山であったようだとしている。<!-- 他に「50とれんち」でも如意ヶ嶽が古くから信仰の対象であったとの言及が有る。--></ref>、『京都市の地名』ではそれに加えて、この山が洛中のどこからでも見ることができたからではないかともしている。
 
「大」の字の意味についてもやはり諸説あり、「大」の字を人の五体に見立てたとの説<ref name = shinsen /><ref name = daimono63>『京の大文字ものがたり』p.63「大文字送り火はなぜ『大の字』か」</ref>もあれば、[[仏教]][[法相学]]で言うところの「四大」、すなわち地、水、火、風が由来であるとも言われ<ref name = daimono63 /><ref name = shikori>『東山三十六峰を眺め心のしこりを晴らしましょう』</ref>、「大」の字が[[五芒星]]を表す、さらにはこの五芒星は[[北辰]]、すなわち[[北斗七星]]または[[北極星]]になぞらえたものであるとの説もある<ref name = daimono63 />。
 
火床の数は5位75法、すなわち75の煩悩が由来であるとする説があり、地元の浄土院もこれを採用している<ref>『京名物 大文字』p.4</ref><ref name = shinsen /><ref name = higa1957 />。ただし古い文献によれば火床の数は(そして火床の大きさも)まちまちであった。『雍州府志』では72または59余り、『京都坊目誌』では69床などがその一例である<ref>『京の送火 大文字』pp.19-20 この文献では『雍州府志』では72床とするが、『雍州府志』「慈照寺山」では、横の一画10箇余、左竪の一画20箇、右の一画29箇余である。</ref>。
 
[[File:Daimonji sosui.jpg|thumb|220px|岡崎の疏水縁より大文字を望む。]]
「大」の字の筆者についてもこれもまた諸説あり、前述の近衛説であれば1662年案内者によれば近衛信尹の、1658年『洛陽名所集』によれば青蓮院門主の、1684年『苑萄泥赴』または1711年『山州名跡志』によれば相国寺の横川和尚の筆などとされ、1684年の『雍州府志』でも謬伝が多しと紹介されている。また、大の字の向きについては、相国寺または室町御所を向いているとう説<ref group = *>『京の大文字ものがたり』によれば、地元浄土寺で支持されている説。</ref>、または、特に御所の池に映る様に向いている説<ref name = annaiki>『京都案内記』</ref><ref>『京の送火 大文字』pp.12-13, p.23</ref>や、[[一条通]]を向いているとう説などがある<ref name = kankou2005 /><ref name = daimono37 />。ちなみに大の字は[[丸太町通]]あたりより以南は段々と見えがたくなり、[[三条通]]からは半分程度しか見えない。一見Kの字に見えるため、かつては外国人観光客が「KYOTOの頭文字だ」と勘違いするようなこともあったらしい<ref>『京の大文字ものがたり』</ref><ref name = higa1957 />。
 
''この節全体についての参考文献は以下を参照。''
 
<ref name = kankou1986 />
<ref name = kankou1986 /><ref>『史跡探訪 東山三十六峰』</ref><ref name = sikori /><ref name = omou /><ref name = shinsen /><ref>『フィールドガイド 大文字山』pp.166-168</ref>
<ref name = sikori />
<ref name = omou />
<ref name = shinsen />
<ref>『フィールドガイド 大文字山』pp.166-168</ref>
 
=== 大文字保存会 ===
もともとは京都の[[愛宕郡]][[浄土寺村]]、[[浄土院 (京都市左京区)|浄土院]]([[浄土宗]]。[[慈照寺]]建立前よりこの地に在った「浄土寺」が移転した際に残された堂が寺となったもの<ref>『京都・山城 寺院神社大事典』</ref>。通称大文字寺)檀家の農家が送り火の行事を維持していた。2000年現在の地名で言えば、左京区の銀閣寺町、銀閣寺前町、および浄土寺東田町、浄土寺南田町、浄土寺石橋町とった地域である<ref name = hogozaidan2000 />。
 
現在は「[[特定非営利活動法人]]、大文字保存会」(NPO、1999年9月より)が管理・運営に当たっている<ref name = hogozaidan2000 />。1995年の文献によれば、少し前までは財源の確保にも苦労しており、寄進者を捜し歩く始末であったという<ref name = anzai /><ref group = *>後述する1962年の送り火中止騒動も参照。</ref>。
1995年の文献によれば、少し前までは財源の確保にも苦労しており、寄進者を捜し歩く始末であったという<ref name = anzai /><ref group = *>後述する1962年の送り火中止騒動も参照。</ref>。
 
なお担当する家は、文献によるが50戸前後であるとのこと<ref>1991年『フィールドガイド 大文字山』p.167。48戸 1994年『東山三十六峰を眺め心のしこりを晴らしましょう』、50余戸 1981年『京洛物語』、47戸 2004年『京都・火の祭事記』、48戸 1957年 『東山三十六峰 -京都案内記-』p.69 など。</ref><ref name = omou /><ref name = shinsen />。
<ref name = omou />
<ref name = shinsen />
 
=== 送り火の中止と白い送り火 ===
[[太平洋戦争]]下にある1943年(昭和18年)、主として連合軍の[[空襲]]への備え、即ち[[防空]]上、[[灯火管制]]上の観点から、送り火の点火は見送られた。屋外での焚火等が禁止されており、空襲警報発令時に即座の消火が困難であるとみられたためという。そのため同年8月16は早朝より[[京都市立第三錦林小学校|第三錦林小学校]]の児童400人とその他一般人400人、計800人が白いシャツを着用し大文字を登り、[[ラジオ体操]]を奉納し、これに代えることとなった。当時の京都新聞では''「英霊を送る」''ともされている<ref>『京都新聞』1943年7月17日朝刊、8月13日夕刊、8月16日夕刊</ref><ref name = anzai /><ref group = *>1943年8月17日付『大阪毎日新聞』では計2000人(『京の大文字ものがたり』pp.153-154 による)。</ref>。
 
翌1944年には[[京都市立錦林小学校|錦林小学校]]および第二、第三、第四錦林小学校の児童が人文字を表し<ref group = *>京都新聞では単に人文字としており、ラジオ体操への言及はい。</ref>、1945年も中止となっていたが、[[終戦]]より一年余りが過ぎた1946年8月16日には4年ぶりに送り火が行われた<ref>『京の大文字ものがたり』p.153「人文字の大文字」</ref><ref>『京都新聞』1944年8月17日朝刊、1946年8月17日朝刊</ref><!-- 京都新聞では1946についてのみ、松ヶ崎と西賀茂への言及あり。他は明示されているのは大文字のみ -->
<ref>『京の大文字ものがたり』p.153「人文字の大文字」</ref>
<ref>『京都新聞』1944年8月17日朝刊、1946年8月17日朝刊</ref>
<!-- 京都新聞では1946についてのみ、松ヶ崎と西賀茂への言及あり。他は明示されているのは大文字のみ -->
 
2012年(平成24年)3月11日午後には、前年発生した[[東日本大震災]]の追悼のため、第三錦林小学校児童および地元住民ら約400人により、白い紙で大の字を作った<ref>『京都新聞』2012年3月12日朝刊</ref>。
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=== 大文字中止騒動 ===
1962年(昭和38年)、送り火に対する京都市の助成金が少なすぎ、また人手も足りず崩れた火床の補修もままならないこと<ref group = *>当時60万円の経費の内、京都市の補助は10万円に過ぎず、ほとんどが地元負担であった。市や市民が大文字送り火を観光資源として利用し利益を得ているのに地元民ばかりに負担を強いるのは堪忍ならないとう向きも多く見られていた。これについては1957年京都新聞編集局『東山三十六峰 -京都案内記-』でも言及されている。また1950年、大文字保勝会『京名物 大文字』での座談会 (p.49-)でも火床の維持、山道の補修などについて保勝会(当時)の声が掲載されている。なおこの座談会において当時の京都市観光課長は祇園祭・大文字送り火は宗教的行事であるので、市として表立っての支援は難しいと見解を述べている。</ref>、市が地元民の会談の要請を無視して大文字の麓の韓国学校に建設許可を与えたことへの反発により<ref group = *>付近に既に[[北朝鮮]]の学校があり、南北朝鮮の対立感情からのトラブルの発生を恐れたとのこと。</ref>、8月12日、大文字保存会は送り火の準備作業である山道と火床の整備を停止。8月12日、総会での投票の結果賛成多数で送り火の中止が決定、点火はせずに大師堂での護摩法要だけを行う見込みとなった。また翌13日には地元有志70名が市に韓国学校の建設中止を陳情。
 
この年は折しも[[阪急京都本線]]の延長工事のため、[[祇園祭]]の[[山鉾巡行]]が中止となっており、京都市は説得を開始。京都市が韓国学校に工事の中止を勧告したほか、今後の協力の見込みが立ったことや、市民からの寄付金が寄せられるなどしたこと、また14日朝から京都市が労働者50人を供出し参道の整備作業を開始<ref group = *>京都市側は送り火とは関係無く、ハイキング客向けの、通常の市道整備を行なっただけとコメントしている。</ref>し、さらに保存会役員や地元長老が説得に動くなどした結果、14日夜の総会で一転、満場一致で送り火の決行が決定し、送り火は無事に点火された<ref>『京都新聞』1962年8月12日-8月16日</ref><ref>『京の大文字ものがたり』pp.158-161</ref>。
 
この年は折しも[[阪急京都本線]]の延長工事のため、[[祇園祭]]の[[山鉾巡行]]が中止となっており、京都市は説得を開始。京都市が韓国学校に工事の中止を勧告したほか、今後の協力の見込みが立ったことや、市民からの寄付金が寄せられるなどしたこと、また14日朝から京都市が労働者50人を供出し参道の整備作業を開始<ref group = *>京都市側は送り火とは関係なく、ハイキング客向けの、通常の市道整備を行っただけとコメントしている。</ref>し、さらに保存会役員や地元長老が説得に動くなどした結果、14日夜の総会で一転、満場一致で送り火の決行が決定し、送り火は無事に点火された<ref>『京都新聞』1962年8月12日-8月16日</ref><ref>『京の大文字ものがたり』pp.158-161</ref>。
 
1980年(昭和55年)2月、火焔・残り火の消火、および万が一それが類焼に及んだ時などの責任の所在を問題とし、また前年7月よりの申し入れにも拘らず市・消防当局の対応に誠意が見られないことを理由に、大文字五山保存連合会は送り火の中止を決定した。
 
これまで消防側は「(焚火と同じで)火を点けた者が責任をもって消火するべきである」としており、また万が一の類焼時には地元民に全ての責任を負わせるかたちとなっており、保存会側は過重な負担を強いられていると主張<ref group = *>京都新聞 1980年5月16日では当時の保存会会長が、高齢化などもあり防火用水を火床まで運搬することからして一苦労であるなどと語っている。またこの記事では市側が送り火を焚火扱いしたことも問題視されている。</ref>。結局は5月に京都市が残り火に責任を持つとすることで合意し、送り火は継続されることになった。このほか、送り火当日の一般人の立ち入りも制限されることとなった<ref>『京の大文字ものがたり』pp.162-164 同書によれば「共同で当たる」。</ref><ref>『京都新聞』1980年2月22日朝刊、5月16日朝刊、5月30日夕刊。京都新聞5月30日夕刊によれば、「京都市が責任を持つ」</ref><ref group = *>1976年 駒敏郎『大文字 五山の送り火』p.70では、立ち入り制限前である1976年当時、送り火当日の火床には実に5000人や3000人とった規模の人出が見られていたと記されており、また1950年 大文字保勝会『京名物 大文字』p.6でもその人出は一般人が数千人とされている。</ref>。<!-- なお、1853年(嘉永6年)、浄土寺村が大火に見舞われ送り火の中止も止むなきとなった際、鳩居堂店主の浄財により送り火を灯すことができた、といった逸話もある<ref name = higa1957 /><ref>『京名物 大文字』p.22</ref>。--><!-- 『京の大文字ものがたり』には[[古都保存協力税]]関係での中止騒動も紹介されているが、特記するほどのものではないようである。-->
<!-- なお、1853年(嘉永6年)、浄土寺村が大火に見舞われ送り火の中止もやむなきとなった際、鳩居堂店主の浄財により送り火を灯すことが出来た、と言った逸話もある。<ref name = higa1957 /><ref>『京名物 大文字』p.22</ref>-->
<!-- 『京の大文字ものがたり』には[[古都保存協力税]]関係での中止騒動も紹介されているが、特記するほどのものではない様である。-->
 
=== 臨時点火 ===
大文字は節目節目の慶事などで点火されることがある。ただし現在、地元ではこのような点火には抵抗が強いようである<ref>1990年の『京の大文字ものがたり』による。</ref>。
; 1890年(明治23年)
: 4月8日、[[琵琶湖疏水]]開通を祝して点灯<ref>『日出新聞』1890年4月9日「昨日の実況」</ref><ref name = daimono145>『京の大文字ものがたり』pp.145-</ref>。
; 1891年(明治24年)
: 5月9日、[[ロシア]][[皇太子]]([[ニコライ2世]])の来日・来京を歓迎するため、大文字、左大文字、船形、妙法の点火が計画された。実際に点火も行われたと見られる<ref>『日出新聞』1890年5月3日、5月9日。20:30からの予定だったとのこと。『京の大文字ものがたり』によれば、日出新聞には点火されたとの続報は示されていない。</ref><ref name = daimono145 />。
; 1895年(明治28年)
: 5月15日、[[日清戦争]]の勝利を記念し、「祝平和」の文字が灯された<ref>『日出新聞』1895年5月15日 今夜点火予定との由。</ref><ref name = daimono145 />。
; 1905年(明治38年)
: 6月1日、[[日本海海戦]]での大勝利を祝い、[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]生徒650名により、大文字の点火が予定された<ref>『日出新聞』1905年6月1日</ref>。ただし新聞には実際に点火されたとの続報はく、また6月10日に人文字のかたちで行われたとの説もある<ref name = daimono145 />。
: 11月25日、日本海海戦大勝利の立役者にして連合艦隊の指揮艦、[[東郷平八郎]]提督の凱旋を歓迎し、大文字が灯された<ref>『日出新聞』1905年11月26日</ref><ref name = daimono145 /><ref name = daimono145 />。
; 1935年(昭和10年)
: 4月3日、前年の[[室戸台風]]で甚大な被害を被った東山の木々を慰めるために点火された<ref name = anzai /><ref name = daimono145 /><ref name = yobun>田中泰彦『京都新聞』 1979年8月16日 p.6「大文字余聞」。京を語る会会長(当時)。安西文献はこれの孫引き。</ref>。
; 2000年(平成12年) [[大晦日]]
: [[21世紀]]の到来を記念して21時から「五山」の送り火が灯された。京都新聞によれば、五山揃って8月16日以外に点火されたのは前例がないことであるという<ref>『京都新聞』 2001年1月1日</ref>。
 
=== 送り火の延期 ===
1963年(昭和38年)には翌年に予定されていた[[東京オリンピック]]も絡めて火床を新調し、さらには前夜祭を催した上で点火時には京都府仏教会により市内の各寺院が鐘を鳴らすなど、大きな規模で送り火が行われる予定で、比叡山などにも多くの見物客が詰めかけていた<ref>『京都新聞』1963年8月16日朝刊および夕刊</ref>。
 
しかし当日の京都市中心部は16時半頃から集中豪雨に見舞われ、浸水や停電などの被害が発生<ref group = *>京都市中心部の[[繁華街]]、[[新京極]]や[[四条河原町]]南部一帯なども停電に見舞われている。</ref>。他の四山については決行されたものの、大文字山では身動きもままならないほどの豪雨に見舞われ点火の準備もままならず、翌17日に延期となった。当時の京都新聞によれば「大文字」のみが中止したのは恐らく初めてではないかとのことである<ref group = *>ただし雨のため点火が「遅れる」ことは、そう珍しいことではないともされている。</ref><ref name = kyoto1963817m>『京都新聞』1963年8月17日 朝刊</ref>。
 
ところが翌17日も断続的な降雨に見舞われ、やむを得ず雨間を縫って予定より25分前倒し、19時35分の点火を決断せざるを得なくなった。しかしながらそれについての広報が万全には至らず、市民の多くが気付かない内に、送り火は終了。見物客もまばらとった次第であった。その後京都市役所などには送り火はまだ点かないのか、との問い合わせが寄せられたが、もう終了したと告げられた市民は憤慨したと<ref>『京都新聞』1963年8月18日 朝刊</ref>
 
その他近代では1913年(大正2年)、豪雨のために18日に延期されたとの伝承があり<ref name = yobun /><ref name = anzai />、1935年(昭和10年)は夕立のため16日には「左大文字」と「船形」のみしか点火できず、「大文字」の送り火は翌17日に延期された例がある<ref>『京都日出新聞』1935年8月17日</ref><ref>『京都日出新聞』1935年8月18日</ref><!-- 京都日出新聞では翌17日の大文字の点火は報道されているが、鳥居と妙法については言及がい。-->。1963年の『京都新聞』によれば、1934年と1935年は(先の報道と矛盾するが)台風での倒木のため延期されたとしている<ref name = kyoto1963817m />。
1963年の『京都新聞』によれば、1934年と1935年は(先の報道と矛盾するが)台風での倒木のため延期されたとしている<ref name = kyoto1963817m />。
 
== 施設・史跡 ==
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{{see also | 如意ケ嶽の戦い}}
{{節stub}}
如意ヶ嶽は京の東の口、京と大津を繋ぐ経路のひとつとして要衝であり、如意城(にょいのじょう<ref>読みは『拾遺都名所図会』による。</ref>)、如意ヶ嶽城、あるいは中尾城と呼ばれる城が築かれていた。正確な所在については諸説あり、慈照寺の裏に当たる中尾山とも、如意ヶ嶽と大文字山の間であるとも言われているが、現在は二つ存在したとする説が有力である<ref group = *>『京都坊目誌』では同一のものとしているが、『資料京都の歴史 8』などでは別の物とされている。別々とした場合、その位置はかなり離れたもの。両城をプロットした地図については『資料京都の歴史 8』、『第49とれんち』、『京都市遺跡地図台帳』などを参照。</ref>。
 
ひとつは中尾城と呼ばれ、如意ヶ嶽の北西の支峰、中尾山に遺構が見られている<ref name = shouwa />。1549年(天文18年)には[[足利義晴]]および細川晴元が築城を行ったとされ、『[[万松院殿穴太記]]』ではその威容について「名城」であるなどと言及している<ref name = shouwa />。翌1550年11月に落城、焼失した。京都市遺跡地図台帳420。
 
もうひとつは如意ヶ嶽城などと呼ばれ、如意ヶ嶽山頂・大文字山山頂付近。『[[応仁記]]』巻三、応仁別記(15-16世紀頃)または[[大乗院寺社雑事記]](1471年、文明3年)によれば、1496年(文明元年)5月に[[多賀高忠]]が如意ヶ嶽に布陣したとの記述がある。恒久的な築城がなされたわけではないと見られるが<ref>『資料京都の歴史 8』p.180、および別添地図。</ref>、現在も空堀や土塁などの遺構が残っている<ref name = hakken1 />。京都市遺跡地図台帳423。
 
隣接地域には[[北白川城]]、[[東岩倉山城]]など、他にも山城がられる<!-- 『50とれんち』では北白川城との連携についても言及が見られている。--><ref name = omou /><ref name = miura /><ref name = yamaaruki /><ref name = kyoutoshino_chimei /><ref name = siryou_shishigatani />。
<ref name = omou />
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<ref name = siryou_shishigatani />
 
=== 如意寺 ===
{{節stub}}
かつて如意ヶ嶽山中に大規模な山岳寺院があった。これを如意寺(にょいじ)または如意輪寺と言う。[[近江]]の園城寺(三井寺)天台宗の別院で、[[比叡三千坊]]のひとつ。開基は[[円珍]](智証大師)であると伝えられ、多くの文献でもこの説が紹介されているが、円珍に関する文献では如意寺の創建について記されていないことなどから、これを疑問視する向きもある<ref>『平安時代山岳伽羅の調査研究』p.64 - 小山田和夫、2007、「如意寺の創建について」</ref>。長等山から鹿ヶ谷まで東西8キロメートルにもわたってその数幾十にも及ぶ堂舎僧房が築かれていたものである<!-- 浄土寺付近にあったその東門は、園城寺の東門も兼ねていた<ref>『京都市の地名』p.71『如意ヶ嶽』</ref> 他に文献無く要確認 -->。園城寺所蔵『園城寺境内古図』では、50を越える建築物が記されている。
 
ちについては明らかではないが歴史はかなり古いらしく、恐らく最も古くは938年の『貞信公記』で言及されており、さらに『今昔物語』巻15のほか<!-- 976年の話 -->、『続本朝往生伝』でも平安時代中期の公家、[[慶滋保胤]]が如意輪寺に住まっていたとの記述が見られる<!-- 997年の話 -->。また『天台宗 如意寺門跡歴代』では、健保年間の公胤が門跡初代である。[[鎌倉幕府]]ともゆかりがあり、二代目将軍[[源頼家]]の子、[[公暁]]も門跡を勤めた<ref>『[[東鑑]]』による。</ref>。
 
[[鎌倉時代]]に栄えたあと1336年(建武3年)、戦火に巻き込まれ焼失<ref>「如意寺発見への挑み 1」によれば、園城寺『寺門伝記補録』に曰く、1336年に罹災した後、1468年に再び焼失した。</ref>したが、『拾遺都名所図会』<!-- 巻2 -->によれば、霊鑑寺尼公([[後水尾院]]皇女)により鹿ヶ谷桜谷町あたりに小堂が再建されたという<ref group = *>一部の古文書で「霊鑑寺の南」として如意寺が紹介されているのは、これのこと。</ref><ref>『平安時代山岳伽羅の調査研究』p.7</ref>。[[明治]]の初年頃にふたたび廃絶した。
 
現在でも多数の遺構が残り、瓦・陶磁器などが多く出土している。如意寺跡調査会らによれば本堂跡は標高415メートル、雨神社と如意ヶ嶽山頂の間、やや南の地点で東西30メートル、南北40メートル程度の平坦地。北、東、西は崖に囲まれ、南側は谷となっている<ref>『平安時代山岳伽羅の調査研究』p.13-15、図版第1, 3, 5</ref><ref>『平安時代山岳伽羅の調査研究』pp.5-9 全般または基礎的な事実について。pp.45- 出土物について(直接の出典とはしていない)。p.64「如意寺の創建について」(小山田和夫)、p.74「如意寺について」(佐々木令信)</ref><ref name = shouwa /><ref>『京都・山城 寺院神社大事典』p.555</ref><ref name = kyoutoshino_chimei>『京都市の地名』</ref><ref name = hakken1>「如意寺跡発見への挑み 1」</ref><ref>「如意寺とその古図」</ref><ref name = kyojizo /><ref group = *>京都市遺跡地図台帳425。</ref><ref group = *>『昭和京都名所図会』によれば、跡地はバレーコートになっているという。</ref>。
<ref>『平安時代山岳伽羅の調査研究』pp.5-9 全般または基礎的な事実について。pp.45- 出土物について(直接の出典とはしていない)。p.64「如意寺の創建について」(小山田和夫)、p.74「如意寺について」(佐々木令信)</ref>
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<ref group = *>『昭和京都名所図会』によれば、跡地はバレーコートになっているという。</ref>
 
=== 千人塚 ===
[[File:Daimonji Sennin.jpg|thumb|220px|千人塚]]
山中には「千人塚」なる石碑があり、これは[[太平洋戦争]]後期、山中に壕を構築していたところ大きな壺に入った大量の遺骨が発見され、それが祀られたものである<ref>『大文字 五山の送り火』p.71</ref><ref name = higa1957>『東山三十六峰 -京都案内記-』</ref><ref group = *>『楽しい京都の山歩き』では、戦後とされてい。</ref><ref name = daimono37 /><ref name = shouwa /><!-- 1957 京都新聞編集局 『東山三十六峰 -京都案内記-』では、「ハゲ山の近く」とされている。この文献では大の字の火床周辺をハゲ山としている。左の流れの末に近い場所である。-->
<ref>『大文字 五山の送り火』p.71</ref>
<ref name = higa1957>『東山三十六峰 -京都案内記-』</ref>
<ref group = *>『楽しい京都の山歩き』では、戦後とされている。</ref>
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<!-- 1957 京都新聞編集局 『東山三十六峰 -京都案内記-』では、「ハゲ山の近く」とされている。この文献では大の字の火床周辺をハゲ山としている。左の流れの末に近い場所である。-->
 
=== 池ノ谷地蔵 ===
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[[File:Nyoigatake iketani 002.jpg|thumb|220px|池ノ谷地蔵。]]
[[File:Nyoigatake yakusou001.jpg|thumb|220px|薬草園。]]
池谷地蔵、池地蔵(いけのじぞう)などとも。京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町。如意ヶ嶽登山道山頂付近より北上、または比叡平より南下した辺りに在る<ref>地図のほか、薬草園のwebサイトによる。竹村俊則『京のお地蔵さん』では左京区如意ヶ嶽池ノ谷。</ref>。如意寺由来の地蔵尊で、高さ約1.5メートル<ref name = kyojizo />、『昭和京都名所図会』によれば如意越の道半ば。かつてはこの辺りの崖下に池があり、それが名称の由来であるとも考えられる。この池は現在は見られない。寺伝によれば[[浄土宗]][[金戒光明寺]]に属し<ref name = anaba /><ref>『京都坊目誌』「上京第28学区(鹿ヶ谷町)之部 - 池ノ地蔵」</ref>、江戸中期から信仰を集めた。また付近は[[ホトトギス]]の名所であったようで、[[渡忠秋]]は「郭公<ref group = *>[[カッコウ]]と[[ホトトギス]]は古来混同が良く見られる。</ref>をききに池の谷にまかりて」との詞書きで、''「おく山のいけのあたりのほととぎす影さへみえて鳴わたりつつ」''と詠んだ。春には山桜が見られる。現在、病気回復や商売繁盛で信仰を集めており、また境内には「薬草園」があり、多種の薬草が植えられている<ref name = shouwa /><ref name = higa1957 /><ref>『拾遺都名所図会』「池谷地蔵」</ref><ref name = kyojizo>『京のお地蔵さん』</ref><ref name = higamei>『東山名勝図会』</ref><ref name = anaba>『京のご利益さんの穴場』</ref><!-- この地蔵については表記がバラバラなのですが、薬草園の住所が「池ノ谷地蔵尊境内」であるため、見出しは暫定的にこれにしてあります。-->
寺伝によれば[[浄土宗]][[金戒光明寺]]に属し<ref name = anaba /><ref>『京都坊目誌』「上京第28学区(鹿ヶ谷町)之部 - 池ノ地蔵」</ref>、江戸中期から信仰を集めた。また付近は[[ホトトギス]]の名所であったようで、[[渡忠秋]]は「郭公<ref group = *>[[カッコウ]]と[[ホトトギス]]は古来混同が良く見られる。</ref>をききに池の谷にまかりて」との詞書きで、''「おく山のいけのあたりのほととぎす影さへみえて鳴わたりつつ」''と詠んだ。春には山桜が見られる。現在、病気回復や商売繁盛で信仰を集めており、また境内には「薬草園」があり、多種の薬草が植えられている。
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<ref>『拾遺都名所図会』「池谷地蔵」</ref>
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<ref name = higamei>『東山名勝図会』</ref>
<ref name = anaba>『京のご利益さんの穴場』</ref>
<!-- この地蔵については表記がバラバラなのですが、薬草園の住所が「池ノ谷地蔵尊境内」であるため、見出しは暫定的にこれにしてあります。-->
 
=== 雨神社 ===
[[File:Nyoigatake ame001.jpg|thumb|220px|雨神社。]]
[[File:Nyoigatake ame002.jpg|thumb|220px|雨神社。]]
雨社大神とも。かつてはここに赤龍社、龍王社、龍王祠(りゅうおうのやしろ)、龍王宮などと呼ばれる社があり、それを継ぐもの。[[大山祇命]]などが祀られている、[[雨乞い]]のための社。『京都坊目誌』によれば[[岡崎神社]]の末社。かつて如意寺の鎮守社であった。地図上では池ノ谷地蔵と如意ヶ嶽山頂の間に位置する。『昭和京都名所図会』によれば、1917(大正6年)年岡崎神社に遷されたが、その後再興。如意越の中程より南に分け入ったところにあり、7月16日に例祭が行われているとう。かつては周囲に大きな池が有ったが、現在は小さな池と、かつての堤などが残るのみである。雨神社と赤龍社の同定が、如意寺発掘調査の足がかりのひとつとなった<ref group = *>京都市遺跡地図台帳425-02。</ref><ref name = shouwa /><ref name = higa1957 /><ref name = higamei /><ref name = kyojizo /><ref>竹村俊則「如意ヶ嶽跡をたづねて」</ref><ref name = hakken1 /><ref name = hakken2>「如意寺跡発見への挑み 2」</ref><ref name = tetsu>『哲学の道とその周辺の史跡を訪ねて』p.21</ref><ref>『平安時代山岳伽羅の調査研究』p.35 赤龍社との同定について。</ref>
<ref group = *>京都市遺跡地図台帳425-02。</ref>
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<ref name = tetsu>『哲学の道とその周辺の史跡を訪ねて』p.21</ref>
<ref>『平安時代山岳伽羅の調査研究』p.35 赤龍社との同定について。</ref>
 
=== 八神社 ===
[[File:Daimonji 8Jinja.jpg|thumb|220px|八神社。]]
天御中主神、高皇産霊神など[[八神殿|宮中八神]]を祀っていることが由来で[[浄土寺村]]の地主神、浄土寺の鎮守社<!-- または旧銀閣寺村の氏神? 『ご利益さん』-->。延期年間創立、かつての名を十禅師社。かつては広大な社域を有していたとも言われ、「浄土寺馬場町」などの地名が往事の規模を偲ばせている。空海が比叡山に参るときに立ち寄ったとの伝承も見られる<ref name = shouwa /><ref>『京都・山城 寺院神社大事典』「八神社」</ref><ref>『京都 ご利益さんの穴場』「八神社」</ref><ref name = kyoutoshino_chimei /><ref>『京都坊目誌』「上京第27学区(浄土寺町)之部 - 八神社」</ref>
<ref name = shouwa />
<ref>『京都・山城 寺院神社大事典』「八神社」</ref>
<ref>『京都 ご利益さんの穴場』「八神社」</ref>
<ref name = kyoutoshino_chimei />
<ref>『京都坊目誌』「上京第27学区(浄土寺町)之部 - 八神社」</ref>
 
== その他 ==
=== ゴルフ場問題 ===
1988年8月12日、不動産業大手[[地産]]および財団法人社会スポーツセンターが、大文字山の北斜面に当たる北白川南ヶ原町に18コース、約100ヘクタールのゴルフ場の建設を計画していることが発覚する<ref>『京都新聞』1988年8月12日朝刊</ref>。これに対し、景観面での問題のみならず、農薬汚染や土砂崩れ<ref group = *>前述の通り、大文字山の北側は風化した花崗岩が多い。</ref>についても懸念が発生し、北白川学区、第三錦林学区の住人の一部を中心に反対運動が展開された。一帯は旧浄土寺村の共有地であったが1969年に大阪の不動産業者の手に渡り、それを地産が1972年または1974年<ref>『ゴルフ場撃退・全記録』では1972年、『京都新聞』1989年12月7日では1974年</ref>に購入したもので、1983年頃からゴルフ場建設を計画していたもの。古都保存法では大の字の火床については開発を規制されているのだが、それ以外の場所については、市街化調整区域(1971年)、第一種風致地区(1970年)の指定により宅地造成に制限はあるものの、あらゆる開発が規制されているものではなかった<ref>『ゴルフ場撃退・全記録』p.15, pp.38-39。『京都新聞』1989年12月6日夕刊、7日朝刊。ゴルフ場以外ではスポーツ施設や寺院などの開発が、禁止はされていない状態であったとされる。</ref>。11月にそれぞれの学区においてゴルフ場建設に反対する団体が別個に発足。反対運動を開始する。翌1989年3月27日には[[京都弁護士会]]公害対策委員会が「大文字部会」を設置<ref>『ゴルフ場撃退・全記録』p.29, p.31, p.43</ref>、京都市に意見書を提出するなどする。1989年8月に行われた京都市長選で反対派はゴルフ場反対との姿勢を明らかにした<ref>『草の根の怒り321』p.25, p.61, p.64, p.96, p.120など。</ref>[[日本共産党]]推薦の[[木村万平]]候補に接近・共闘するも、[[公明党]]・[[民社党]]が推薦、[[自由民主党]]が支持する[[田辺朋之]]候補に321票差で敗北した<ref>『ゴルフ場撃退・全記録』pp.51-55</ref>。その後大文字山の沢水、地下水を利用していた[[京都大学]]の学生なども反対運動を展開する。1989年12月6日、地産は市民らの反発が強いことを理由として計画を白紙撤回した<ref>『ゴルフ場撃退・全記録』pp.59-63、『京都新聞』1989年12月6日夕刊</ref>。なお、送り火に関わる大文字保存会は中立の立場を取っていた<ref>『京都新聞』1989年12月7日</ref>。その後1990年のゴルフ場等建設指導要綱、およびその1993年の改定で、京都市では2012年現在開発許可を必要とするゴルフ場の建設は認められない<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000081/81699/golfyoukou200904.pdf]京都市運動施設等及びゴルフ場の建設事業に関する指導要綱</ref><ref>『京都市長選挙結果調』1989年、『京都破壊に抗して』</ref><ref group = *>ちなみに比叡平東方、大津側にある「皇子山カントリークラブ」は1960年(昭和35年)1月起工、1961年6月開場。もともとは開拓地であった。</ref><ref>『皇子山カントリークラブ20年史』p.76「20周年座談会」およびp.98の年表。</ref><!-- 『京都新聞』では他に1989年11月14日に、京都大学生の上梓した冊子の紹介記事あり。ゴルフ場等建設指導要綱は1993年9月16-17日。京都新聞のみならず朝日・毎日でも報道。--><!-- 『ゴルフ場撃退・全記録』では市長選について「大文字山ゴルフ場が争点」と記しているが、1989年8月の『京都新聞』を参照する限り、大きく扱われているわけではない模様。むしろ8/23には争点不明確と示されている上、8/24の世論調査でも、全く言及されていない。木村側の広報資料でもゴルフ場問題を大きく打ち出しているとはいえない。いずれにしても権威あり中立な立場からの分析・言及が見られず、よって現在は選挙の争点については言及せずとしている。--><!-- 他に 1989 11/27 朝日新聞、1989 12/2 毎日夕刊 などに記述がある。-->。
なお、送り火に関わる大文字保存会は中立の立場を取っていた<ref>『京都新聞』1989年12月7日</ref>。
その後1990年のゴルフ場等建設指導要綱、およびその1993年の改定で、京都市では2012年現在開発許可を必要とするゴルフ場の建設は認められない<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000081/81699/golfyoukou200904.pdf]京都市運動施設等及びゴルフ場の建設事業に関する指導要綱</ref>。
<ref>『京都市長選挙結果調』1989年、『京都破壊に抗して』</ref>
<ref group = *>ちなみに比叡平東方、大津側にある「皇子山カントリークラブ」は1960年(昭和35年)1月起工、1961年6月開場。もともとは開拓地であった。</ref><ref>『皇子山カントリークラブ20年史』p.76「20周年座談会」およびp.98の年表。</ref>
<!-- 『京都新聞』では他に1989年11月14日に、京都大学生の上梓した冊子の紹介記事あり。ゴルフ場等建設指導要綱は1993年9月16-17日。京都新聞のみならず朝日・毎日でも報道。-->
<!-- 『ゴルフ場撃退・全記録』では市長選について「大文字山ゴルフ場が争点」と記しているが、1989年8月の『京都新聞』を参照する限り、大きく扱われているわけではない模様。むしろ8/23には争点不明確と示されている上、8/24の世論調査でも、全く言及されていない。木村側の広報資料でもゴルフ場問題を大きく打ち出しているとは言えない。いずれにしても権威あり中立な立場からの分析・言及が見られず、よって現在は選挙の争点については言及せずとしている。-->
<!-- 他に 1989 11/27 朝日新聞、1989 12/2 毎日夕刊 などに記述がある。-->
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
=== 書籍等 ===
*{{Cite journal ja-jp
* {{Cite journal ja-jp | author = 安西幸夫 | title = 大文字送り火 | year = 1995 | journal = 京都・左京の十五年戦争 | pages = 140 | isbn = 4-87699-193-6}} - 大文字保存会会計(当時)の安西による寄稿。
|author = 安西幸夫
* {{Cite book ja-jp | author = 井手成三 | title = 京都案内記 | year = 1956 | publisher = 角川書店 | pages = pp.18-19}}
|title = 大文字送り火
* {{Cite book ja-jp | author = 岩瀬栄彬 | title = 京の大文字ものがたり | year = 1990 | publisher = 松籟社 | isbn = 4-87984-111-0}} - 五山の「送り火」の歴史や地元での行事について詳しい。第一章「五山送り火の謎」では、送り火の起源について多くの説が系統立って紹介されている。岩瀬は送り火の起源について、京都の大文字が[[高知県]][[四万十市]](旧[[中村市]])の大文字焼きの成立に強く影響を及ぼしたとして、1565年以前に既に存在したと仮定し、それが戦国時代の争乱の落ち着いた頃に復活・定着したのではないかとの説を提示している。
|year = 1995
* {{Cite book ja-jp | author = 岩田英彬 | title = 楽しい京の山歩き | year = 1995 | publisher = 松籟社 | pages = 29-36 | isbn = 4-87984-168-4}}
|journal = 京都・左京の十五年戦争
* {{Cite book ja-jp | editor = 碓井小三郎 | title = 京都坊目誌 | capter = 「上京第27学区(浄土寺町)之部 八神社」、上京第28学区(鹿ヶ谷町)之部 「如意ヶ嶽」「雨神社」「池ノ地蔵」| year = 1916}} - 京都叢書。如意寺について特に詳しい。直接の出典とはしていないが、「楼門の滝」「如意ヶ嶽城」「談合谷」にも言及。
|pages = 140
* {{Cite book ja-jp | author = 皇子山カントリークラブ | title = 皇子山カントリークラブ20年史 | publisher = 皇子山カントリークラブ | year = 1978}} - 滋賀県立図書館蔵書
|isbn = 4-87699-193-6
* {{Cite book ja-jp | author = 大阪営林局 | title = 東山国有林風致計画 | year = 1936 | publisher = 大阪営林局 | pages = 口絵「銀閣寺山国有林 林相図」、p.21「5.国有林の林相と其の成因」、p.53「7.2.土地所有の沿革」}}
}} - 大文字保存会会計(当時)の安西による寄稿。
* {{Cite book ja-jp | author = 大槻雅弘、内田嘉弘、木之下繁 | year = 2008 | series = 新・分県登山ガイド 改訂版 25 | title = 京都府の山 | capter = 50 大文字山 | publisher = 山と渓谷社 | pages = 108-109 | isbn = 978-4-635-02375-7}} - 大槻雅弘執筆部
*{{Cite book ja-jp
* {{Cite journal ja-jp | author = 梶川敏夫 | title = 如意寺跡発見への挑み 1 | journal = 園城寺 | volume = 56 | publisher = 総本山園城寺 | year = 1986}} - 大津市立図書館蔵書。如意寺、如意ヶ嶽城について。
|author = 井手成三
* {{Cite journal ja-jp | author = 梶川敏夫 | title = 如意寺跡発見への挑み 2 | journal = 園城寺 | volume = 57 | publisher = 総本山園城寺 | year = 1986}} - 大津市立図書館蔵書。如意寺本堂跡について、雨神社についてのほか、園城寺『寺門伝記補録』の全文が引用されている。なおこの論文は『園城寺』58号までの3回の連載である。
|title = 京都案内記
* {{Cite book ja-jp | editor = 角川日本地名大辞典編纂委員会、竹内理三 | title = 角川 日本地名大辞典 26 京都府 上巻 | publisher = 角川書店 | year = 1982 | pages = p.867「大文字山」、p.1117「如意ヶ嶽」}}
|year = 1956
* {{Cite book ja-jp | author = 加納進 | title = 哲学の道とその周辺の史跡を訪ねて | year = 1986 | publisher = 室町書房}}
|publisher = 角川書店
* {{Cite journal ja-jp | author = 川勝政太郎 | year = 1952 | title = 如意寺とその古図 | journal = 史跡と美術 228 | publisher = 史跡・美術同攷会}}
|pages = pp.18-19
* {{Cite book ja-jp | editor = 北白川小学校 | title = 北白川こども風土記 | year = 1958 | publisher = 山口書店}}
}}
* {{Cite book ja-jp | author = 木村万平 | title = 京都破壊に抗して - 市民運動20年の軌跡 | year = 2007 | publisher = かもがわ出版 | isbn = 978-4-7803-0102-1 | pages = 114-118}}
*{{Cite book ja-jp
* {{Cite book ja-jp | author = 京都市選挙管理委員会 | title = 京都市長選挙結果調 | year = 1989 | publisher = 京都市選挙管理委員会}} - 京都府立総合資料館蔵書
|author = 岩瀬栄彬
* {{Cite book ja-jp | author = 京都市文化観光資源保護財団、大文字五山保存会連合会 | year = 2000 | title = 京都 大文字五山送り火}} - 概要についてのパンフレット状のもの。京都府立総合資料館蔵。
|title = 京の大文字ものがたり
* {{Cite book ja-jp | author = 京都市文化観光局文化観光部文化財保護課、大文字五山保存会連合会 | year = 1986 | title = 京の伝統行事 大文字五山送り火}} - 概要についてのパンフレット状のもの。京都府立総合資料館蔵。
|year = 1990
* {{Cite book ja-jp | editor = 京都趣味登山会『京都・滋賀 近郊の山を歩く』編集委員会 | title = 京都・滋賀 近郊の山を歩く | year = 1998 | publisher = 京都新聞社 | isbn = 4-7638-0435-9}}
|publisher = 松籟社
* {{Cite book ja-jp | author = 京都趣味登山会 | year = 2003 | title = 京都・滋賀 ふるさとの山103 | publisher = 京都趣味登山会 | pages = 106-107}} - 京都府立総合資料館蔵
|isbn = 4-87984-111-0
* {{Cite book ja-jp | editor = 京都新聞出版センター | year = 2003 | title = ウォーキング京都 | publisher = 京都新聞出版センター | pages = 14 | isbn = 4-7638-0511-8 | pages = 14}}
}} - 五山の「送り火」の歴史や地元での行事について詳しい。第一章「五山送り火の謎」では、送り火の起源について多くの説が系統立って紹介されている。岩瀬は送り火の起源について、京都の大文字が[[高知県]][[四万十市]](旧[[中村市]])の大文字焼きの成立に強く影響を及ぼしたとして、1565年以前にすでに存在したと仮定し、それが戦国時代の争乱の落ち着いた頃に復活・定着したのではないかとの説を提示している。
* {{Cite book ja-jp | editor = 京都新聞編集局 | title = 東山三十六峰 -京都案内記- | year = 1957 | publisher = 河出出版 | pages = p.65「如意岳」}}
*{{Cite book ja-jp
* {{Cite book ja-jp | editor = 京都地学会 | author = 益富寿之助 (監修) ほか | year = 1993 | title = 京都の地学図鑑 | isbn = 4-7638-0320-4}}
|author = 岩田英彬
* {{Cite book ja-jp | author = 京都府 | title = 京都府特定鳥獣保護管理計画 ニホンザル | year = 2011 | publisher = 京都府}} - 京都府立総合資料館蔵
|title = 楽しい京の山歩き
* {{Cite book ja-jp | author = 京都府 | title = 京都市鳥獣保護区等位置図 平成23年度 (および付属冊子) | year = 2011 | publisher = 京都府}} - 京都府立総合資料館蔵
|year = 1995
* {{Cite book ja-jp | author = 近畿中国森林管理局 | title = フォレストニュース「森のひろば」 | volume = 988 民有林と国有林の連携による森林づくり | chapter = 「五山の送り火」と銀閣寺山国有林 | year = 2008 | url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/koho/koho_si/morinohiroba/pdf/no988.pdf | pages = 6 }}
|publisher = 松籟社
* {{Cite book ja-jp | editor = 古代学協会、江谷寛、坂誥秀一 | title = 平安時代山岳伽羅の調査研究 - 如意寺跡を中心として | series = 古代学協会研究報告第1輯 | year = 2007 | publisher = 古代学協会}} - 本文中で示した箇所のほか、p.78「如意寺関係史料」も参考とした。雨神社(赤龍社)や楼門の滝についての史料も示されている。
|pages = 29-36
* {{Cite book ja-jp | author = 駒敏郎 | title = 大文字 五山の送り火 | year = 1976 | publisher = 駸々堂出版}}
|isbn = 4-87984-168-4
* {{Cite book ja-jp | author = 清水誠規 | title = 京洛物語 | year = 1981 | publisher = 丸善}}
}}
* {{Cite book ja-jp | editor = 下中邦彦 | title = 日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名 | year = 1979 | publisher = 平凡社 | pages = p.71「如意ヶ嶽」、p71「中尾城跡」、p.71「大文字山」、p.144「八神社」、p.151「談合谷」、p.151「如意寺跡」}}
*{{Cite book ja-jp
* {{Cite book ja-jp | editor = 薪く炭くKYOTO | title = 京都・火の祭事記 - 伝統行事からみた森林資源と人のつながり - | year = 2004 | publisher = 薪く炭くKYOTO}} - 編者の読みは「しんくたんくきょうと」。
|editor = 碓井小三郎
* {{Cite book ja-jp | editor = 市民本位の民主主政をすすめる会 | title = 草の根の怒り321 89京都市長選の記録 | publisher = 市民本位の民主主政をすすめる会 | year = 1989}} - 京都府立総合資料館蔵書
|title = 京都坊目誌
* {{Cite book ja-jp | editor = 鈴木元 | title = 京都山歩き一周トレール | year = 1997 | publisher = かもがわ出版 | pages = 26-38 | isbn 4-87699-311-4}}
|capter = 「上京第27学区(浄土寺町)之部 八神社」、上京第28学区(鹿ヶ谷町)之部 「如意ヶ嶽」「雨神社」「池ノ地蔵」
* {{Cite book ja-jp | author = 鈴木元 ほか | title = 新編 ベスト・ハイク 京滋の山 | year = 2004 | publisher = かもがわ出版 | isbn = 4-87699-811-6 | pages = 22-25}} - 旧版は1990年。
|year = 1916
* {{Cite book ja-jp | author = 芝村文治 | title = 京滋百山 三角点を行く 下 | year = 1993 | publisher = かもがわ出版 | isbn = 4-87699-077-8}}
}} - 京都叢書。如意寺について特に詳しい。直接の出典とはしていないが、「楼門の滝」「如意ヶ嶽城」「談合谷」にも言及。
* {{Cite book ja-jp | author = 瀨戸憙雄 | publisher = 創元社 | year = 1984 | title = 東山連峰に思う | pages = 50-56}} - 特に如意越に詳しい。
*{{Cite book ja-jp
* {{Cite book ja-jp | author = 大文字保勝会 | title = 京名物 大文字 | year = 1950 | publisher = 大文字保勝会}} - 京都府立資料館蔵書
|author = 皇子山カントリークラブ
* {{Cite book ja-jp | editor = 大文字保存会 | title = 大文字送り火 説明資料 | year = 2003 | publisher = 大文字保存会}} - 京都府立資料館蔵書
|title = 皇子山カントリークラブ20年史
* {{Cite book ja-jp | editor = 大文字山ゴルフ場建設に反対する会、大文字山ゴルフ場問題を考える会 | title = ゴルフ場撃退・全記録 | year = 1990 | publisher = かもがわ出版}}
|publisher = 皇子山カントリークラブ
* {{Cite book ja-jp | author = 竹村俊則 | title = 新撰京都名所図会 | volume = 1 | year = 1958 | publisher = 白川書院 | pages = 117-118}}
|year = 1978
* {{Cite book ja-jp | author = 竹村俊則 | title = 京のお地蔵さん | year = 1994 | publisher = 京都新聞社 | pages = 27-29}}
}} - 滋賀県立図書館蔵書
* {{Cite book ja-jp | author = 竹村俊則 | title = 昭和京都名所図会 | volume = 2 洛東-下| year = 1981 | publisher = 駸々堂出版 | pages = 100-104}} - 『新撰京都名所図会』 (1958)の増補改訂版。如意ヶ嶽、大文字送り火、如意寺、八神社、池の地蔵、雨神社、談合谷、楼門ノ滝の項目を参考とした。
*{{Cite book ja-jp
* {{Cite journal ja-jp | author = 竹村俊則 | year = 1952 | title = 如意寺跡をたづねて | journal = 史跡と美術 228 | publisher = 史跡・美術同攷会}}
|author = 大阪営林局
* {{Cite book ja-jp | author = 田中泰彦 | title = 京都ご利益さんの穴場 | year = 1993 | publisher = 京を語る会 | pages = p.55「八神社」、p.65「池の谷地蔵」}}
|title = 東山国有林風致計画
* {{Cite book ja-jp | author = 田中緑紅 | title = 京の送火 大文字 | year = 1957 | publisher = 京を語る会}} - 京都府立総合資料館蔵。『緑紅叢書』第1年4輯の4。送火の由来について、現在主流でない説なども紹介。
|year = 1936
* {{Cite book ja-jp | editor = 地学団体研究会京都支部 | title = 郷土の地質見学案内シリーズ 1 大文字山の岩石と鉱物 改訂版 | year = 1968 | publisher = 地学団体研究会京都支部}} - 京都府立資料館蔵書
|publisher = 大阪営林局
* {{Cite book ja-jp | editor = [[奈良本辰也]] | title = 京都故事物語 | year = 1967 | publisher = 河出書房 | pages = 275-276}}
|pages = 口絵「銀閣寺山国有林 林相図」、p.21「5.国有林の林相と其の成因」、p.53「7.2.土地所有の沿革」
* {{Cite book ja-jp | editor = 奈良本辰也 | title = 史跡探訪 東山三十六峰 | year = 1978 | publisher = 京都新聞 | pages = 64-70}}
}}
* {{Cite book ja-jp | author = 林屋辰三郎 他 | title = 史料京都の歴史 8 左京区 京都市編 | year = 1985年11月30日 | publisher = [[平凡社]]}} p.13「自然と景観 - 比叡山・大文字山とその鞍部」p.171「鹿ヶ谷村」(如意越、如意ヶ嶽城。雍州府志および名所都鳥など)、p.195「浄土寺村」(中尾城、『万松院殿穴太記』。送り火、『雍州府志』巻1および『東山名所図解』2巻) - 各種の古文書を集積して地域別に抜き書きしたもの。
*{{Cite book ja-jp
* {{Cite book ja-jp | author = 久山喜久雄 他 | title = フィールドガイド大文字山 法然院森の教室 | year = 1991 | publisher = ナカニシヤ出版 | isbn = 978-4888481502}}
|author = 大槻雅弘、内田嘉弘、木之下繁
* {{Cite book ja-jp | author = 久山喜久雄 他 | title = 大文字山を歩こう 里山で自然観察 | year = 2003年 | publisher = ナカニシヤ出版 | isbn = 4-88848-783-9}} - 『フィールドガイド 大文字山』からの再録も多いため、多くについてはこちらの参照でも可である。
|year = 2008
* {{Cite book ja-jp | author = 平凡社地方資料センター | title = 京都・山城 寺院神社大事典 | year = 1997 | isbn = 4-582-13401-7 }} - p.555「如意寺」、p.566「八神社」、p.357「浄土院」、p.358「浄土寺」
|series = 新・分県登山ガイド 改訂版 25
* {{Cite book ja-jp | author = 三浦隆夫 | editor = 京都新聞社 | publisher = 京都新聞社 | title = 東山三十六峰を歩く 面白の花の都や | year = 1995 | pages = 85-91}}
|title = 京都府の山
* {{Cite book ja-jp | author = 邨瀬豊 | publisher = 近代文藝社 | year = 1994 | title = 東山三十六峰を眺め心のしこりを晴らしましょう | pages = 25 | isbn = 4-7733-2424-4}}
|capter = 50 大文字山
* {{Cite book ja-jp | author = 安田陽介 | year = 2007 | title = 大文字山を食べる 山菜・キノコ採集記 | publisher = 新風社 | pages = 157-160 | isbn = 978-4-289-01165-0}}
|publisher = 山と渓谷社
* {{Cite news | author = 山本武人 | title = 歩きま専科 大文字山 | date = 2001-3-30 | newspaper = 京都新聞}} - 京都新聞の連載登山コラム。掲載地図について、主に東山トレイルのルートを参考とした。
|pages = 108-109
|isbn = 978-4-635-02375-7
}} - 大槻雅弘執筆部
*{{Cite journal ja-jp
|author = 梶川敏夫
|title = 如意寺跡発見への挑み 1
|journal = 園城寺
|volume = 56
|publisher = 総本山園城寺
|year = 1986
}} - 大津市立図書館蔵書。如意寺、如意ヶ嶽城について。
*{{Cite journal ja-jp
|author = 梶川敏夫
|title = 如意寺跡発見への挑み 2
|journal = 園城寺
|volume = 57
|publisher = 総本山園城寺
|year = 1986
}} - 大津市立図書館蔵書。如意寺本堂跡について、雨神社についてのほか、園城寺『寺門伝記補録』の全文が引用されている。なおこの論文は『園城寺』58号までの3回の連載である。
*{{Cite book ja-jp
|editor = 角川日本地名大辞典編纂委員会、竹内理三
|title = 角川 日本地名大辞典 26 京都府 上巻
|publisher = 角川書店
|year = 1982
|pages = p.867「大文字山」、p.1117「如意ヶ嶽」
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 加納進
|title = 哲学の道とその周辺の史跡を訪ねて
|year = 1986
|publisher = 室町書房}}
*{{Cite journal ja-jp
|author = 川勝政太郎
|year = 1952
|title = 如意寺とその古図
|journal = 史跡と美術 228
|publisher = 史跡・美術同攷会
}}
*{{Cite book ja-jp
|editor = 北白川小学校
|title = 北白川こども風土記
|year = 1958
|publisher = 山口書店
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 木村万平
|title = 京都破壊に抗して - 市民運動20年の軌跡
|year = 2007
|publisher = かもがわ出版
|isbn = 978-4-7803-0102-1
|pages = 114-118}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 京都市選挙管理委員会
|title = 京都市長選挙結果調
|year = 1989
|publisher = 京都市選挙管理委員会
}} - 京都府立総合資料館蔵書
*{{Cite book ja-jp
|author = 京都市文化観光資源保護財団、大文字五山保存会連合会
|year = 2000
|title = 京都 大文字五山送り火
}} - 概要についてのパンフレット状のもの。京都府立総合資料館蔵。
*{{Cite book ja-jp
|author = 京都市文化観光局文化観光部文化財保護課、大文字五山保存会連合会
|year = 1986
|title = 京の伝統行事 大文字五山送り火
}} - 概要についてのパンフレット状のもの。京都府立総合資料館蔵。
*{{Cite book ja-jp
|editor = 京都趣味登山会『京都・滋賀 近郊の山を歩く』編集委員会
|title = 京都・滋賀 近郊の山を歩く
|year = 1998
|publisher = 京都新聞社
|isbn = 4-7638-0435-9
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 京都趣味登山会
|year = 2003
|title = 京都・滋賀 ふるさとの山103
|publisher = 京都趣味登山会
|pages = 106-107
}} - 京都府立総合資料館蔵
*{{Cite book ja-jp
|editor = 京都新聞出版センター
|year = 2003
|title = ウォーキング京都
|publisher = 京都新聞出版センター
|pages = 14
|isbn = 4-7638-0511-8
|pages = 14
}}
*{{Cite book ja-jp
|editor = 京都新聞編集局
|title = 東山三十六峰 -京都案内記-
|year = 1957
|publisher = 河出出版
|pages = p.65「如意岳」
}}
*{{Cite book ja-jp
|editor = 京都地学会
|author = 益富寿之助(監修)ほか
|year = 1993
|title = 京都の地学図鑑
|isbn = 4-7638-0320-4
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*{{Cite book ja-jp
|author = 京都府
|title = 京都府特定鳥獣保護管理計画 ニホンザル
|year = 2011
|publisher = 京都府
}} - 京都府立総合資料館蔵
*{{Cite book ja-jp
|author = 京都府
|title = 京都市鳥獣保護区等位置図 平成23年度(および付属冊子)
|year = 2011
|publisher = 京都府
}} - 京都府立総合資料館蔵
*{{Cite book ja-jp
|author = 近畿中国森林管理局
|title = フォレストニュース「森のひろば」
|volume = 988 民有林と国有林の連携による森林づくり
|chapter = 「五山の送り火」と銀閣寺山国有林
|year = 2008
|url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/koho/koho_si/morinohiroba/pdf/no988.pdf
|pages = 6
}}
*{{Cite book ja-jp
|editor = 古代学協会、江谷寛、坂誥秀一
|title = 平安時代山岳伽羅の調査研究 - 如意寺跡を中心として
|series = 古代学協会研究報告第1輯
|year = 2007
|publisher = 古代学協会
}} - 本文中で示した箇所のほか、p.78「如意寺関係史料」も参考とした。雨神社(赤龍社)や楼門の滝についての史料も示されている。
*{{Cite book ja-jp
|author = 駒敏郎
|title = 大文字 五山の送り火
|year = 1976
|publisher = 駸々堂出版
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 清水誠規
|title = 京洛物語
|year = 1981
|publisher = 丸善
}}
*{{Cite book ja-jp
|editor = 下中邦彦
|title = 日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名
|year = 1979
|publisher = 平凡社
|pages = p.71「如意ヶ嶽」、p71「中尾城跡」、p.71「大文字山」、p.144「八神社」、p.151「談合谷」、p.151「如意寺跡」
}}
*{{Cite book ja-jp
|editor = 薪く炭くKYOTO
|title = 京都・火の祭事記 - 伝統行事からみた森林資源と人のつながり -
|year = 2004
|publisher = 薪く炭くKYOTO
}} - 編者の読みは「しんくたんくきょうと」。
* {{Cite book ja-jp
|editor = 市民本位の民主主政をすすめる会
|title = 草の根の怒り321 89京都市長選の記録
|publisher = 市民本位の民主主政をすすめる会
|year = 1989
}} - 京都府立総合資料館蔵書
*{{Cite book ja-jp
|editor = 鈴木元
|title = 京都山歩き一周トレール
|year = 1997
|publisher = かもがわ出版
|pages = 26-38
|isbn 4-87699-311-4
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 鈴木元 ほか
|title = 新編 ベスト・ハイク 京滋の山
|year = 2004
|publisher = かもがわ出版
|isbn = 4-87699-811-6
|pages = 22-25
}} - 旧版は1990年。
*{{Cite book ja-jp
|author = 芝村文治
|title = 京滋百山 三角点を行く 下
|year = 1993
|publisher = かもがわ出版
|isbn = 4-87699-077-8
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 瀨戸憙雄
|publisher = 創元社
|year = 1984
|title = 東山連峰に思う
|pages = 50-56
}} - 特に如意越に詳しい。
*{{Cite book ja-jp
|author = 大文字保勝会
|title = 京名物 大文字
|year = 1950
|publisher = 大文字保勝会
}} - 京都府立資料館蔵書
*{{Cite book ja-jp
|editor = 大文字保存会
|title = 大文字送り火 説明資料
|year = 2003
|publisher = 大文字保存会
}} - 京都府立資料館蔵書
*{{Cite book ja-jp
|editor = 大文字山ゴルフ場建設に反対する会、大文字山ゴルフ場問題を考える会
|title = ゴルフ場撃退・全記録
|year = 1990
|publisher = かもがわ出版
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 竹村俊則
|title = 新撰京都名所図会
|volume = 1
|year = 1958
|publisher = 白川書院
|pages = 117-118
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 竹村俊則
|title = 京のお地蔵さん
|year = 1994
|publisher = 京都新聞社
|pages = 27-29
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 竹村俊則
|title = 昭和京都名所図会
|volume = 2 洛東-下
|year = 1981
|publisher = 駸々堂出版
|pages = 100-104
}} - 『新撰京都名所図会』 (1958)の増補改訂版。如意ヶ嶽、大文字送り火、如意寺、八神社、池の地蔵、雨神社、談合谷、楼門ノ滝の項目を参考とした。
*{{Cite journal ja-jp
|author = 竹村俊則
|year = 1952
|title = 如意寺跡をたづねて
|journal = 史跡と美術 228
|publisher = 史跡・美術同攷会
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 田中泰彦
|title = 京都ご利益さんの穴場
|year = 1993
|publisher = 京を語る会
|pages = p.55「八神社」、p.65「池の谷地蔵」
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 田中緑紅
|title = 京の送火 大文字
|year = 1957
|publisher = 京を語る会
}} - 京都府立総合資料館蔵。『緑紅叢書』第1年4輯の4。送火の由来について、現在主流でない説なども紹介。
*{{Cite book ja-jp
|editor = 地学団体研究会京都支部
|title = 郷土の地質見学案内シリーズ 1 大文字山の岩石と鉱物 改訂版
|year = 1968
|publisher = 地学団体研究会京都支部
}} - 京都府立資料館蔵書
*{{Cite book ja-jp
|editor = [[奈良本辰也]]
|title = 京都故事物語
|year = 1967
|publisher = 河出書房
|pages = 275-276
}}
*{{Cite book ja-jp
|editor = 奈良本辰也
|title = 史跡探訪 東山三十六峰
|year = 1978
|publisher = 京都新聞
|pages = 64-70
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 林屋辰三郎 他
|title = 史料京都の歴史 8 左京区 京都市編
|year = 1985年11月30日
|publisher = [[平凡社]]
}} p.13「自然と景観 - 比叡山・大文字山とその鞍部」p.171「鹿ヶ谷村」(如意越、如意ヶ嶽城。雍州府志および名所都鳥など)、p.195「浄土寺村」(中尾城、『万松院殿穴太記』。送り火、『雍州府志』巻1および『東山名所図解』2巻) - 各種の古文書を集積して地域別に抜き書きしたもの。
*{{Cite book ja-jp
|author = 久山喜久雄 他
|title = フィールドガイド大文字山 法然院森の教室
|year = 1991
|publisher = ナカニシヤ出版
|isbn = 978-4888481502
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 久山喜久雄 他
|title = 大文字山を歩こう 里山で自然観察
|year = 2003年
|publisher = ナカニシヤ出版
|isbn = 4-88848-783-9}} - 『フィールドガイド 大文字山』からの再録も多いため、多くについてはこちらの参照でも可である。
*{{Cite book ja-jp
|author = 平凡社地方資料センター
|title = 京都・山城 寺院神社大事典
|year = 1997
|isbn = 4-582-13401-7
}} - p.555「如意寺」、p.566「八神社」、p.357「浄土院」、p.358「浄土寺」
*{{Cite book ja-jp
|author = 三浦隆夫
|editor = 京都新聞社
|publisher = 京都新聞社
|title = 東山三十六峰を歩く 面白の花の都や
|year = 1995
|pages = 85-91
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 邨瀬豊
|publisher = 近代文藝社
|year = 1994
|title = 東山三十六峰を眺め心のしこりを晴らしましょう
|pages = 25
|isbn = 4-7733-2424-4
}}
*{{Cite book ja-jp
|author = 安田陽介
|year = 2007
|title = 大文字山を食べる 山菜・キノコ採集記
|publisher = 新風社
|pages = 157-160
|isbn = 978-4-289-01165-0
}}
*{{Cite news
|author = 山本武人
|title = 歩きま専科 大文字山
|date = 2001-3-30
|newspaper = 京都新聞
}} - 京都新聞の連載登山コラム。掲載地図について、主に東山トレイルのルートを参考とした。
 
=== 新聞 ===
*{{Cite news
* {{Cite news | newspaper = 日出新聞 | date = 1890年4月9日 | pages = 2 | title = 昨日の実況}} - 疏水開通記念での点灯についての言及
* {{Cite news | newspaper = 日出新聞
| date = 1890年4月109
| pages = 3 2
| title = 通水式昨日夜会実況
}} - 疏水開通記念での点灯についての言及
*{{Cite news
* {{Cite news | newspaper = 日出新聞 | date = 1890年5月3日 | pages = 1 | title = 京都に於ける歓迎の準備}} - ロシア皇太子歓迎
|newspaper = 日出新聞
* {{Cite news | newspaper = 日出新聞 | date = 1890年5月9日 | pages = 1 | title = 露国皇太子殿下}} - ロシア皇太子歓迎 送り火は20:30から予定されていた
|date = 1890年4月10日
* {{Cite news | newspaper = 日出新聞 | date = 1895年5月15日 | pages = 1 | title = 新樹啼鵑}} - 日清戦争勝利「祝平和」点灯
|pages = 3
* {{Cite news | newspaper = 日出新聞 | date = 1905年6月1日 | pages = 7 | title = 大捷と市中(市民歓喜の声) - 第三高等の大文字点火}}
|title = 通水式の夜会
* {{Cite news | newspaper = 日出新聞 | date = 1905年11月26日 | pages = 7 | title = 建礼門前の拝賀式 - 大祝賀会寡報}}
}} - 疏水開通記念での点灯についての言及
* {{Cite news | newspaper = 京都日出新聞 | date = 1935-8-17 | pages = 朝刊 p.3 | title = 雨に流れた大文字 船と左大文字が寂しく燃ゆる}}
*{{Cite news
* {{Cite news | newspaper = 京都日出新聞 | date = 1935-8-18 | pages = 朝刊 p.3 | title = 一夜越しの大文字 東山の夜空にぽつかり}}
|newspaper = 日出新聞
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1943-7-17 | pages = 朝刊 p.2 | title = 大文字 今年はどうなる? 防空強化の際だけに}}
|date = 1890年5月3日
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1943-8-13 | pages = 夕刊 p.2 | title = 白い"朝"の大文字 ラジオ体操で描く京の名物行事}}
|pages = 1
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1943-8-16 | pages = 夕刊 p.2 | title = 英霊を送る 山腹にバツと白の大文字咲いて}}<!-- 「ツ」はママ -->
|title = 京都に於ける歓迎の準備
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1944-8-17 | pages = 朝刊 p.3 | title = 送り火は若き力で 大文字に描く「人文字」}}
}} - ロシア皇太子歓迎
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1946-8-17 | pages = 朝刊 p.2 | title = 四年ぶり彩つたお盆の夜空}}<!-- 「つ」はママ -->
*{{Cite news
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1962-8-12 | pages = 夕刊 p.5(7版) | title = "大文字"ことしは中止}}
|newspaper = 日出新聞
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1962-8-13 | pages = 朝刊 p.11 | title = "大文字"騒ぎ・きょうがヤマ 市、急ぎ解決へ話し合い}}
|date = 1890年5月9日
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1962-8-13 | pages = 夕刊 p.7(4版) | title = 韓国学校の移転望む 地元民、京都市に陳情}}
|pages = 1
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1962-8-14 | pages = 朝刊 p.10 | title = "大文字を消さないで" 市民からぞくぞく寄附}}
|title = 露国皇太子殿下
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1962-8-14 | pages = 夕刊 p.7 | title = 市、けさ山道の整備作業 大文字保存会 長老が反対派を説得}}
}} - ロシア皇太子歓迎 送り火は20:30から予定されていた
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1962-8-15 | pages = 朝刊 p.1 | title = "大文字"点火に決まる 守られた"五山の送り火"}} - および p.11
*{{Cite news
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1963-8-16 | pages = 朝刊 p.15 | title = きょう大文字ショー 送り火、大型化準備OK}}
|newspaper = 日出新聞
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1963-8-16 | pages = 夕刊 p.7 | title = "五山の火"一望に 大文字鑑賞へ人波続く}}
|date = 1895年5月15日
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1963-8-17 | pages = 朝刊 p.10 | title = また浸水、停電騒ぎ 集中豪雨 大文字客もアワ食う}}
|pages = 1
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1963-8-17 | pages = 朝刊 p.11 | title = "主役"なしの大文字 異例、四山だけ点火 "2日ショー"がっかりの人波}}
|title = 新樹啼鵑
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1963-8-18 | pages = 朝刊 p.10 | title = 日延べ大文字 抜き打ち点火 また雨、25分も早く 気付かぬ市民は憤慨}}
}} - 日清戦争勝利「祝平和」点灯
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1972-8-16 | pages = 夕刊 p.11 | title = 大文字 点火待つばかり 火床へリフト}}
*{{Cite news
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1980-2-22 | pages = 朝刊 p.1 | title = 大文字五山送り火 点火中止を決める}}
|newspaper = 日出新聞
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1980-5-16 | pages = 朝刊 p.3 | title = 灯せぬか伝統の"火"}}
|date = 1905年6月1日
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1980-5-30 | pages = 夕刊 p.13 | title = 大文字 ともします}}
|pages = 7
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1988-8-12 | pages = 朝刊 p.23 | title = 大文字山(北東部)にゴルフ場 大手不動産業者が計画}} - 完成(予想)模型の写真も掲載。
|title = 大捷と市中(市民歓喜の声) - 第三高等の大文字点火
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1989-12-6 | pages = 夕刊 p.1 | title = 大文字山 業者(地産)ゴルフ場断念 市民の反発厳しく}}
}}
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1989-12-7 | pages = 朝刊 p.28 | title = 大文字山ゴルフ場計画断念 「環境守れた」歓迎}}
*{{Cite news
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 1993-9-16 | pages = 夕刊 p.1 | title = ゴルフ場開発全面禁止へ 指導要綱で明文化}} - 18日朝刊に社説。<!-- ポンポン山ゴルフ場にも触れている。-->
|newspaper = 日出新聞
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 2001-1-1 | pages = 朝刊 p.1 | title = 希望の火 21世紀幕開け 平和願い京を照らす}} - 30面、31面にも言及がある。
|date = 1905年11月26日
* {{Cite news | newspaper = 京都新聞 | date = 2012-3-12 | pages = 朝刊 p.29 | title = 鎮魂の「大」人文字}}
|pages = 7
|title = 建礼門前の拝賀式 - 大祝賀会寡報
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都日出新聞
|date = 1935-8-17
|pages = 朝刊 p.3
|title = 雨に流れた大文字 船と左大文字が寂しく燃ゆる
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都日出新聞
|date = 1935-8-18
|pages = 朝刊 p.3
|title = 一夜越しの大文字 東山の夜空にぽつかり}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1943-7-17
pages = 朝刊 p.2
|title = 大文字 今年はどうなる? 防空強化の際だけに
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1943-8-13
|pages = 夕刊 p.2
|title = 白い"朝"の大文字 ラジオ体操で描く京の名物行事
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1943-8-16
|pages = 夕刊 p.2
|title = 英霊を送る 山腹にバツと白の大文字咲いて<!-- 「ツ」はママ -->
}}
* {{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1944-8-17
|pages = 朝刊 p.3
|title = 送り火は若き力で 大文字に描く「人文字」
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1946-8-17
|pages = 朝刊 p.2
|title = 四年ぶり彩つたお盆の夜空<!-- 「つ」はママ -->
}}
* {{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1962-8-12
|pages = 夕刊 p.5(7版)
|title = "大文字"ことしは中止
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1962-8-13
|pages = 朝刊 p.11
|title = "大文字"騒ぎ・きょうがヤマ 市、急ぎ解決へ話し合い
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1962-8-13
|pages = 夕刊 p.7(4版)
|title = 韓国学校の移転望む 地元民、京都市に陳情
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1962-8-14
|pages = 朝刊 p.10
|title = "大文字を消さないで" 市民からぞくぞく寄附
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1962-8-14
|pages = 夕刊 p.7
|title = 市、けさ山道の整備作業 大文字保存会 長老が反対派を説得
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1962-8-15
|pages = 朝刊 p.1
|title = "大文字"点火に決まる 守られた"五山の送り火"}} - および p.11
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1963-8-16
|pages = 朝刊 p.15
|title = きょう大文字ショー 送り火、大型化準備OK
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1963-8-16
|pages = 夕刊 p.7
|title = "五山の火"一望に 大文字鑑賞へ人波続く
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1963-8-17
|pages = 朝刊 p.10
|title = また浸水、停電騒ぎ 集中豪雨 大文字客もアワ食う
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1963-8-17
|pages = 朝刊 p.11
|title = "主役"なしの大文字 異例、四山だけ点火 "2日ショー"がっかりの人波
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1963-8-18
|pages = 朝刊 p.10
|title = 日延べ大文字 抜き打ち点火 また雨、25分も早く 気付かぬ市民は憤慨
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1972-8-16
|pages = 夕刊 p.11
|title = 大文字 点火待つばかり 火床へリフト
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1980-2-22
|pages = 朝刊 p.1
|title = 大文字五山送り火 点火中止を決める
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1980-5-16
|pages = 朝刊 p.3
|title = 灯せぬか伝統の"火"
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1980-5-30
|pages = 夕刊 p.13
|title = 大文字 ともします
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1988-8-12
|pages = 朝刊 p.23
|title = 大文字山(北東部)にゴルフ場 大手不動産業者が計画
}} - 完成(予想)模型の写真も掲載。
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1989-12-6
|pages = 夕刊 p.1
|title = 大文字山 業者(地産)ゴルフ場断念 市民の反発厳しく
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1989-12-7
|pages = 朝刊 p.28
|title = 大文字山ゴルフ場計画断念 「環境守れた」歓迎
}}
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 1993-9-16
|pages = 夕刊 p.1
|title = ゴルフ場開発全面禁止へ 指導要綱で明文化
}} - 18日朝刊に社説。<!-- ポンポン山ゴルフ場にも触れている。-->
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 2001-1-1
|pages = 朝刊 p.1
|title = 希望の火 21世紀幕開け 平和願い京を照らす
}} - 30面、31面にも言及がある。
*{{Cite news
|newspaper = 京都新聞
|date = 2012-3-12
|pages = 朝刊 p.29
|title = 鎮魂の「大」人文字
}}
 
=== 地図 ===
* 京都一周トレイル会 2009年 京都一周トレイルコース公式ガイドマップ 東山
* 京都市都市計画局 2007年3月 1:2500 『大文字山』 如意ヶ嶽山頂の所在地と高度について。<!-- 大文字山山頂の所在地について。現版では未反映。-->
* 京都市都市計画局 2007年3月 1:2500 『如意ヶ嶽』 如意ヶ嶽山頂の所在およびそれ以東の地形などについて<!--
『大文字山』では如意ヶ嶽山頂は471.9m。『如意ヶ嶽』では航空無線標識所が471.6m、その近傍が471.8m -->
* 国土地理院 1996年6月1 1万分の1地形図 『大津』 京都及び大阪2-4-2,3-3-1
* 参謀本部測量、地理調査所発行 1955年1月30 1:10,000地形図 京都近傍2号 『大文字山』
* シンブン21編、2010年、『2010年 京都市都市計画地図集』
 
=== ウェブサイト ===
* {{Cite web
* {{Cite web | author = 京都市 | url = http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000078/78056/golfyoukou200904.pdf | title = 京都市運動施設等及びゴルフ場の建設事業に関する指導要綱 | publisher = 京都市 | data = PDF | accessdate = 2012-5-1}}
|author = 京都市
* {{Cite web | author = 京都市観光協会 | url = http://www.kyokanko.or.jp/3dai/daimonji.html | publisher = 京都市観光協会 | title = 五山送り火 | accessdate = 2012-2-27}}
|url = http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000078/78056/golfyoukou200904.pdf
* {{Cite web | author = 京都市産業観光局 | publisher = 京都市産業観光局 | title = 京都一周トレイル | url = http://kaiwai.city.kyoto.jp/raku/kanko_top/kyoto_trail.html | accessdate = 2012-4-2}}
|title = 京都市運動施設等及びゴルフ場の建設事業に関する指導要綱
* {{Cite web | author = 京都市産業観光局観光部観光企画課 | url = http://kanko.city.kyoto.lg.jp/feature/okuribi_11.php | publisher = 京都市産業観光局観光部観光企画課 | title = 京都観光Navi 京都五山送り火 | accessdate = 2012-2-27}}
|publisher = 京都市
* {{Cite web | author = 京都市産業観光局観光MICE推進室 | url = http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=7000050 | title = 京都観光Vavi : 如意ヶ嶽 | publisher = 京都市産業観光局観光MICE推進室 | accessdate = 2012-4-9}}
|data = PDF
* {{Cite web | author = 京都市文化市民局 | url = http://www.city.kyoto.jp/bunshi/maibun/tizudaityou/hukusuutiiki.html | title = 史跡・名勝・天然記念物・文化財環境保全地区及び埋蔵文化財包蔵地台帳(遺跡地図台帳)| publisher = 京都市文化市民局 | accessdate = 2012-4-23}} - 台帳番号は2012年4月現在。
|accessdate = 2012-5-1}}
* {{Cite web | author = 京都新聞社 | url = http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gozan/08.php | title = 送り火よもやま話 - 過去の紙面から | publisher = 京都新聞社 | accessdate = 2012-3-15}} - 直接出典に用いてはいないが、送り火にまつわる事件の概要を参考とした。
*{{Cite web
* {{Cite web | author = 京都府 | url = http://www.pref.kyoto.jp/reiki/reiki_honbun/aa30006771.html | title = 鳥獣保護区の指定 | publisher = 京都府 | accessdate = 2012-2-26}} - 京都府告示第639号
|author = 京都市観光協会
* {{Cite web | author = 林野庁京都大阪森林管理事務所 城尾あすか | url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/kyoto/katudo_hokoku/20091118jusho/pdf/211112kenkyuhapyo.pdf | data = pdf | title = 銀閣寺山国有林におけるマツ林再生の取組 | accessdate = 2012-2-26}}
|url = http://www.kyokanko.or.jp/3dai/daimonji.html
* {{Cite web | author = 林野庁京都大阪森林管理事務所 | url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/kyoto/information/evrepo/220414kyoutohyakukaten-ginkaku/pdf/sannkasya-siryou.pdf | title = 銀閣寺山国有林におけるマツ林再生について | data = pdf | date = 2010-4-14 | accessdate = 2012-2-27}}
|publisher = 京都市観光協会
* {{Cite web | author = 林野庁近畿中国森林管理局 | url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/kyoto/information/pamphlet/pdf/100426kannaigaiyou.pdf | title = 京都・大阪の国有林 | publisher = [[林野庁]][[近畿中国森林管理局]] | data = PDF | year = 2010 | accessdate = 2012-4-9}}
|title = 五山送り火
* {{Cite web | author = 林野庁近畿中国森林管理局 | url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/kyoto/information/pamphlet/pdf/pamphlet_1.pdf | data = pdf | title = 京都の国有林 | publisher = [[林野庁]][[近畿中国森林管理局]] | accessdate = 2012-2-27}} - 京都府立総合資料館にも『京都・大阪の国有林』の付録として蔵書あり。
|accessdate = 2012-2-27}}
*{{Cite web
|author = 京都市産業観光局
|publisher = 京都市産業観光局
|title = 京都一周トレイル
|url = http://kaiwai.city.kyoto.jp/raku/kanko_top/kyoto_trail.html
|accessdate = 2012-4-2
}}
*{{Cite web
|author = 京都市産業観光局観光部観光企画課
|url = http://kanko.city.kyoto.lg.jp/feature/okuribi_11.php
|publisher = 京都市産業観光局観光部観光企画課
|title = 京都観光Navi 京都五山送り火
|accessdate = 2012-2-27}}
*{{Cite web
|author = 京都市産業観光局観光MICE推進室
|url = http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=7000050
|title = 京都観光Vavi : 如意ヶ嶽
|publisher = 京都市産業観光局観光MICE推進室
|accessdate = 2012-4-9
}}
*{{Cite web
|author = 京都市文化市民局
|url = http://www.city.kyoto.jp/bunshi/maibun/tizudaityou/hukusuutiiki.html
|title = 史跡・名勝・天然記念物・文化財環境保全地区及び埋蔵文化財包蔵地台帳(遺跡地図台帳)
|publisher = 京都市文化市民局
|accessdate = 2012-4-23
}} - 台帳番号は2012年4月現在。
*{{Cite web
|author = 京都新聞社
|url = http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gozan/08.php
|title = 送り火よもやま話 - 過去の紙面から
|publisher = 京都新聞社
|accessdate = 2012-3-15
}} - 直接出典に用いてはいないが、送り火にまつわる事件の概要を参考とした。
* {{Cite web
|author = 京都府
|url = http://www.pref.kyoto.jp/reiki/reiki_honbun/aa30006771.html
|title = 鳥獣保護区の指定
|publisher = 京都府
|accessdate = 2012-2-26
}} - 京都府告示第639号
* {{Cite web
|author = 林野庁京都大阪森林管理事務所 城尾あすか
|url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/kyoto/katudo_hokoku/20091118jusho/pdf/211112kenkyuhapyo.pdf
|data = pdf
|title = 銀閣寺山国有林におけるマツ林再生の取組
|accessdate = 2012-2-26
}}
*{{Cite web
|author = 林野庁京都大阪森林管理事務所
|url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/kyoto/information/evrepo/220414kyoutohyakukaten-ginkaku/pdf/sannkasya-siryou.pdf
|title = 銀閣寺山国有林におけるマツ林再生について
|data = pdf
|date = 2010-4-14
|accessdate = 2012-2-27
}}
*{{Cite web
|author = 林野庁近畿中国森林管理局
|url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/kyoto/information/pamphlet/pdf/100426kannaigaiyou.pdf
|title = 京都・大阪の国有林
|publisher = [[林野庁]][[近畿中国森林管理局]]
|data = PDF
|year = 2010
|accessdate = 2012-4-9}}
*{{Cite web
|author = 林野庁近畿中国森林管理局
|url = http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/kyoto/information/pamphlet/pdf/pamphlet_1.pdf
|data = pdf
|title = 京都の国有林
|publisher = [[林野庁]][[近畿中国森林管理局]]
|accessdate = 2012-2-27
}} - 京都府立総合資料館にも『京都・大阪の国有林』の付録として蔵書あり。
 
=== 古文書 ===
* 『拾遺都名所図会』- [http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html 国際日本文化研究センターのデータベース]より参照可能。これも中尾山、如意城、池谷地蔵、雨神社など広く言及。一部について参照した。
* 木村明啓、1864、『東山名勝図会』巻2 または『再撰 花洛名勝図会 東山之部』巻4 - [http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html 国際日本文化研究センターのデータベース]より参照可能。送り火、如意寺、談合谷、中尾城についてなど、広く言及されている。一部言及について参照した。
* 黒川道祐、1676、『日時紀事』7月16日 - 送り火について。『史料 京都見聞記』第1巻より。
* 黒川道祐、1686、『雍州府志』 - 巻1、山川門愛宕郡では如意ヶ嶽、慈照寺山で全般について言及。一部について参照した。巻4、寺院門愛宕郡の慈照寺の項目でも言及が有る。
* 黒川道祐、1687頃、『近畿歴覧記』 - 楼門の滝について。『史料 京都見聞記』第1巻より。
* 松野元敬、1665、『扶桑京華志』巻之1 山岳 - 如意宝山との記述と、送り火への簡単な言及。<!--
<!-- [[本居宣長]] 宝暦6-7年頃、『在京日記』 - 駒敏郎、村井康彦、守谷尅久 編、『史料 京都見聞記』第2巻紀行2、1991年、法蔵館 収録。当該部はp.17。--><!-- 『山城名所寺社物語』 - 談合谷 -->
<!-- 『山城名所寺社物語』 - 談合谷 -->
 
== 関連文献 == <!-- あくまで参考用 -->
* 『都名所図会』 巻3 - [http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html 国際日本文化研究センターのデータベース]より参照可能。「大文字山」として。
*{{Cite web
* {{Cite web | title = e国宝 園城寺境内古図 | capter = 如意寺境内古図 | url = http://www.emuseum.jp/detail/101093/001/005?word=&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=273&num=3&mode=detail&century= | publisher = 国立博物館 | accessdate = 2012-4-14}} - 如意寺境内を描いた古図。
|title = e国宝 園城寺境内古図
* {{Cite book ja-jp | author = 池田硯、東山学園 | title = 比叡山・如意ヶ嶽・東山山系の自然科学的研究 | year = 1970}} - 京都府立総合資料館蔵
|capter = 如意寺境内古図
* {{Cite book ja-jp | author = 京都大学考古学研究会 | title = 第49とれんち | year = 1998 | publisher = 京都大学考古学研究会 | pages = p.62「大文字山踏査報告」}} - 如意越・中尾城・如意ヶ嶽城がプロットされた地図。および中尾城の遺構調査。
|url = http://www.emuseum.jp/detail/101093/001/005?word=&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=273&num=3&mode=detail&century=
* {{Cite book ja-jp | author = 京都大学考古学研究会 | title = 第50とれんち | year = 2001 | publisher = 京都大学考古学研究会}} - 大文字山特集。中尾城の歴史・遺構のほか、隣接する北白川城と一体化して防御施設として成立していたのではないか、との考察など。如意ヶ嶽信仰・如意寺の歴史にも言及。
|publisher = 国立博物館
* {{Cite journal | author = 上山春平 | title = 如意越え探索 | journal = 園城寺 | volume = 26 | publisher = 総本山園城寺 | year = 1979}} - 大津市立図書館蔵書。如意越えと如意ヶ嶽城(大文字山山頂付近)についての考察。なおこの文書では慈照寺から火床へ至るルートを「大文字道」と呼称している。
|accessdate = 2012-4-14}} - 如意寺境内を描いた古図。
* {{Cite journal | author = 滋野敬淳 | title = 三井寺如意寺山越えの記 | journal = 園城寺 | volume = 22 | publisher = 総本山園城寺 | year = 1978}} - 大津市立図書館蔵書。滋賀大津側、園城寺(三井寺)付近からの入山経路など。
*{{Cite book ja-jp
* {{Cite book ja-jp | author = 矢野桂司 | editor = 中村和郎 | title = 地図からの発想 | year = 2005 | publisher = 古今書院 | pages = p.74「デジタル地図から景観シミュレーションへ 大文字山の展望:四条大橋からの送り火鑑賞}} - 京都市内各所で見える「五山の送り火」の数を可視化し、[[GIS]]でプロットした地図が掲載。
|author = 池田硯、東山学園
<!--
|title = 比叡山・如意ヶ嶽・東山山系の自然科学的研究
* {{Cite book ja-jp | author = 京都市都市計画局都市景観部風致保全課 | title = 京都市風致地区条例許可基準と解説 | year = 2001 | publisher = 京都市都市計画局都市景観部風致保全課}}
|year = 1970}} - 京都府立総合資料館蔵
* {{Cite book ja-jp | editor = 如意寺研究会 | title = 古代文化 | volume = 第43巻第6号 「如意寺の諸問題」特輯号 | year = 1991}}
*{{Cite book ja-jp
-->
|author = 京都大学考古学研究会
|title = 第49とれんち
|year = 1998
|publisher = 京都大学考古学研究会
|pages = p.62「大文字山踏査報告」}} - 如意越・中尾城・如意ヶ嶽城がプロットされた地図。および中尾城の遺構調査。
*{{Cite book ja-jp
|author = 京都大学考古学研究会
|title = 第50とれんち
|year = 2001
|publisher = 京都大学考古学研究会}} - 大文字山特集。中尾城の歴史・遺構のほか、隣接する北白川城と一体化して防御施設として成立していたのではないか、との考察など。如意ヶ嶽信仰・如意寺の歴史にも言及。
*{{Cite journal
|author = 上山春平
|title = 如意越え探索
|journal = 園城寺
|volume = 26
|publisher = 総本山園城寺
|year = 1979}} - 大津市立図書館蔵書。如意越えと如意ヶ嶽城(大文字山山頂付近)についての考察。なおこの文書では慈照寺から火床へ至るルートを「大文字道」と呼称している。
*{{Cite journal
|author = 滋野敬淳
|title = 三井寺如意寺山越えの記
|journal = 園城寺
|volume = 22
|publisher = 総本山園城寺
|year = 1978
}} - 大津市立図書館蔵書。滋賀大津側、園城寺(三井寺)付近からの入山経路など。
*{{Cite book ja-jp
|author = 矢野桂司
|editor = 中村和郎
|title = 地図からの発想
|year = 2005
|publisher = 古今書院
|pages = p.74「デジタル地図から景観シミュレーションへ 大文字山の展望:四条大橋からの送り火鑑賞}} - 京都市内各所で見える「五山の送り火」の数を可視化し、[[GIS]]でプロットした地図が掲載。<!--
*{{Cite book ja-jp
|author = 京都市都市計画局都市景観部風致保全課
|title = 京都市風致地区条例許可基準と解説
|year = 2001
|publisher = 京都市都市計画局都市景観部風致保全課
}}
*{{Cite book ja-jp
|editor = 如意寺研究会
|title = 古代文化
|volume = 第43巻第6号 「如意寺の諸問題」特輯号
|year = 1991
}} -->
 
== 外部リンク ==
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{{Commonscat|Nyoigatake Castle|如意ヶ嶽城}}
{{Commons|五山送り火|五山の送り火}}
* [http://www.gozan-okuribi.com/ 五山送り火連合会]
* [http://kanko.city.kyoto.lg.jp/feature/okuribi_11.php 京都市観光Navi 京都五山送り火]
* [http://www.kyokanko.or.jp/3dai/daimonji.html 京都市観光協会 五山送り火]
* [http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gozan/ 京都新聞 五山送り火]
* [http://www.kbs-kyoto.co.jp/okuribi/okuribi_movie.htm KBS京都 五山送り火ダイジェスト] (動画、2008年撮影)
* [http://www2u.biglobe.ne.jp/~plants/ 池ノ谷薬草園へようこそ]
 
{{Good article}}