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'''本多 忠周'''('''ほんだ ただちか'''、[[寛永]]19年([[1642年]]) - [[正徳 (日本)|正徳]]2年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]([[1712年]][[8月6日]]))は、[[三河国]][[足助藩]]の初代藩主。[[本多忠義]]の五男。初名は忠当(ただまさ)。通称は千之助、酒之允。官位は従五位下。[[伊予]]守、[[淡路]]守。
 
父親の[[本多忠義|忠義]]から[[陸奥国]][[白河藩]]内で2500石を分与され別家をたてる。[[元和]]元年([[1681年]])に[[三河国]]加茂郡に5000石で移封。翌年、[[丹波国]]内に2000石を加増される。[[天和]]3年([[1683年]])2月2日に[[寺社奉行]]に任じられるのと同時に3000石を加増され、合計1万石となり諸侯に列した。
 
[[貞享]]4年(1687年)5月14日に勤務怠慢から寺社奉行を免職され、2年後の[[元禄]]2年(1689年)6月4日には、加増分の3000石を没収されて[[旗本]]に戻った。