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この混乱期に彼は[[アゼルバイジャン]]地方の帰属を巡ってフレグ西征軍と対立し、[[カスピ海]]東南方面において盛んに軍を派遣してフレグおよび[[アバカ]]の指揮する西征軍との戦闘をくり返した。({{仮リンク|ベルケ・フレグ戦争|en|Berke–Hulagu war}})
 
[[マムルーク朝]]側の記録によれば、ベルケは一連の事件からフレグ西征軍中のジョチ家の軍民にジョチ・ウルスへの直接の帰還がかなわない場合はマムルーク朝側に一旦亡命するよう指示を出していたため、[[1261年]]に4名の百戸長が[[カイロ (エジプト)|カイロ]]に訪れたという。マムルーク朝の[[スルターン]]・[[バイバルス]]は彼らを歓待して金品や兵馬を下賜し、ベルケとの同盟を見込んで翌[[1262年]]初冬にクリミア半島経由でジョチ・ウルスへ使節を派遣した。こうして幾度か使節の応答が行われ、マムルーク朝はイラン方面からのモンゴルの逃亡兵たち避難先として機能するようになった。
 
[[1265年]]に[[カフカス山脈]]東端の[[デルベント]]に派遣した[[ノガイ]]が、アバカの弟君[[ヨシムト]]<ref>[[フレグ]]の三男。</ref>に惨敗したことを機に、アゼルバイジャン征服を企図して親征した。しかし、[[グルジア]]の首都[[ティフリス]]で渡河するためクル川を遡っていた途上に病没する。ジョチ・ウルスの諸軍は撤退し、ベルケの柩は[[サライ (都市)|バトゥ・サライ]]に運ばれ、そこで埋葬された。