「伊達政宗」の版間の差分

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天正12年([[1584年]])10月に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、一門・重臣の勧めを受けて家督を譲り受けた。
 
[[小浜城 (陸奥国)|小浜城]]主・[[大内定綱]]は[[二本松城]]主・[[二本松義継]]と手を組み、[[田村氏]]の支配から脱却しようとした。天正13年([[1585年]])、政宗は大内領[[小手森城]]へ兵を進め、近隣諸国への見せしめの為として撫で斬りを行い、城中の者を皆殺しにしている。大内定綱の没落を間近で見た義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを二本松領として安堵されることになった。ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出た所を拉致される。当時狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害した。この事件については、政宗による父殺しの陰謀説もある。
 
その後、[[初七日]]法要を済ますと、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲したが、11月17日に二本松城救援のため集結した[[佐竹氏]]率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と[[安達郡]]人取橋で激突した。数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、政宗自身も矢玉を浴びるなど危機的状況に陥ったが、[[殿軍]]を務めた老臣・[[鬼庭良直|鬼庭左月斎]]の捨て身の防戦によって退却に成功し、翌日の佐竹軍の撤兵により辛うじて窮地を脱した([[人取橋の戦い]])。
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