「推古天皇」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
出典提示
引用部分
25行目:
|}}
 
'''推古天皇'''(すいこてんのう、[[欽明天皇]]15年([[554年]]) - 推古天皇36年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]([[628年]][[4月15日]])『古事記』では[[戊子]]年3月15日)は、第33代天皇(在位:[[崇峻天皇]]5年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]([[593年]][[1月15日]]) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『[[古事記]]』では37年)。日本初の女帝である<ref name="a">ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。(第2章『女性統治者の出現』、5『最初の「天皇」は女性だった』、『日本で最初の「天皇」』)</ref>。また関西大学名誉教授横田健一によれば日本最初の女帝推古天皇が即位したとき「女帝・女王」は当時の東アジアにはまだいなかったと述べ、推古天皇を東アジア初の女性君主としている。<ref>[[横田健一]](著)『古代王権と女性たち』、[[吉川弘文館]]、1996年1月発行22頁''引用ー『女帝・女王は当時の東アジア世界にはまだいなかった。新羅第二十七代の善徳女王が王位についたのが六三二年のことで、推古天皇崩後四年目のことである。』''・・・。・ISBN 4-642-07408-2。</ref>[[諱]]は'''額田部皇女'''(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は'''豊御食炊屋姫尊'''(とよみけかしきやひめのみこと、『[[日本書紀]]』による。『古事記』では'''豊御食炊屋比売命'''という)。『古事記』ではこの天皇までを記している<ref>『古事記』推古天皇段には「妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはりだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。)御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき」(『古事記』)とある。[[小治田宮]]は[[奈良県]][[高市郡]]。</ref>。
 
天皇号を初めて用いた日本の君主という説もある<ref name="a" />が、[[1998年]]の[[飛鳥池遺跡]]での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、[[天武天皇]]が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。