「劉継元」の版間の差分

テンプレート、本文改変、カテゴリ改変
m編集の要約なし
(テンプレート、本文改変、カテゴリ改変)
{{基礎情報 中国君主
|名 =英武帝 劉継元
|代数 =第4
|呼称 =皇帝
|画像 =
|小字 =
|諡号 =英武帝
|廟号 =
|生年 =不詳
|没年 =[[淳化]]2年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]</br>([[992年]][[1月25日]])
|父 =何氏
|母 =[[劉崇|劉旻世祖]]の娘
|皇后 =馬皇后
|陵墓 =
|年号 =[[天会 (北漢)|天会]] : [[968年]] - [[973年]]</br>[[広運 (北漢)|広運]] : [[974年]] - [[979年]]
|注釈 =
}}
'''劉 継元'''(りゅう けいげん、? - [[992年]])は、[[五代十国時代|十国]][[北漢]]の第4代皇帝。生母は[[薛釗]]の元で北漢の第3代皇帝[[劉継恩]]を儲けているが、劉薛釗が劉旻の兄劉知遠([[後漢 (五代)|後漢]]の高祖)に自害を命じられた後に何氏に嫁ぎ劉継元を儲けている。つまり、継元は継恩の異父弟である。継元は父母が共に死去すると北漢の第2代皇帝[[劉鈞]]に養子として迎えられた
 
== 生涯 ==
天会12年([[968年]])、劉鈞が没し劉継恩が帝位を継ぐと、劉継元は太原尹に任じられた。同年、劉継恩が[[侯霸栄]]により殺害されると、[[司空]]である[[郭無為]]により皇帝に推戴された。即位後は[[遼]]との緊張関係改善に努めた。しかし残忍な性格の一面も有しており、養母である郭皇后及び劉旻の子を殺害し、また反抗する部下も一族誅滅するなどし、国内は大いに乱れた。
生母は世祖[[劉崇|劉旻]]の娘で、[[薛釗]]に嫁いで少主[[劉継恩]]を儲けたが、薛釗が劉旻の兄[[劉知遠]]([[後漢 (五代)|後漢]]の高祖)に自害を命じられた後に何氏に嫁ぎ継元を儲けている。父母が共に死去すると継元は睿宗[[劉鈞]]に養子として迎えられた。
 
[[天会 (北漢)|天会]]12年([[968年]])、劉鈞睿宗崩御劉継恩異父兄の少主が帝位を継ぐと、継元は太原尹に任じられた。同年、劉継恩少主が[[侯霸栄]]により殺害されると、[[司空]]である[[郭無為]]によって皇帝に推戴された。即位後は[[遼]]との緊張関係改善に努めた。しかし残忍な性格の一面も有しており、養母である郭皇后及び劉旻世祖の子を殺害し、また反抗する下も一族誅滅するなどし、国内は大いに乱れた。
 
[[974年]]には広運と改元、翌年には[[遼]]によって大漢英武皇帝に冊封されている。
 
広運6年([[979年]])、華南全土を支配下におさめた[[ (王朝)|宋]]([[北宋]])華南地区の当地を目指し漢攻撃実施開始[[太宗 (宋)|太宗[[趙光義]]趙炅の親征が実施され。遼は北漢へ援軍を送るが宋軍の前に敗退し、劉継元英武帝は宋に投降、ここに北漢は滅亡した。
 
宋に臣属した後は右衛上将軍に任じられ、彭城郡公に封じられた。[[太平興国]]6年([[981年]])には彭城公に、[[雍熙]]3年([[986年]])には保康軍節度使に任じられている。
 
[[淳化]]2年([[992年]])に病死すると、中書令が追贈されると共に彭城郡王に追封された。
 
{{先代次代|[[北漢]]の第4代[[中国帝王一覧|皇帝]]|第4代:968968年 - 979年|[[劉継恩|少主]]|(なし)滅亡}}
 
{{DEFAULTSORT:りゆう けいけん}}
[[Category:十国の君主]]
[[Category:北漢|けいけん]]
[[Category:宋代の人物]]
[[Category:10世紀生]]
[[Category:992年没]]