「木曽谷」の版間の差分

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多いというのは少なくとも過半数を指すので、存在するという意味の「ある」にしました。その他、微修正。
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そして[[元慶]]3年9月に懸坂上岑([[木祖村]]と旧[[奈川村]]との境界にある堺峠)と([[鳥居峠 (長野県)|鳥居峠]])を境界とし、岐蘇・小岐蘇の所属は美濃国恵那郡絵上郷と定められたが、平安末期になると、源義仲が信濃国木曾の住人とされたように、「木曾谷は信濃」という認識が生まれた。
 
古代末期から中世初期にかけて、大吉祖荘([[宗像氏|宗像少輔領]])と小木曽荘([[八条院領]])の2つの[[荘園]]が史料上に現れ、中世中期([[14世紀]])頃までその名が見られる。大吉祖荘は信濃国、小木曽荘は美濃国と書かれる傾向にあった。14世紀までに常陸の真壁氏が[[地頭]]として木曾谷南部の小木曽荘を支配していたが、建武争乱の勲功で[[足利尊氏]]から木曾谷北部の大吉祖荘を恩賞として与えられた上野国沼田氏が当地に入部すると、沼田氏は木曾谷全域へ支配を広げていった。沼田氏は源義仲の末裔を称し(実際は、藤原秀郷の末裔とされる)、[[木曾氏]]と名乗った。
 
15世紀末には、新たに木曾荘が登場する。木曾荘は16世紀前半まで美濃国として史料に現れるが、16世紀半ば頃に当地を支配下に入れた[[武田信玄]]は木曾谷を信濃と認識した。「木曾谷は信濃」の認識が定着したのは、おそらく信玄以後のことだろうと考えられている。