「コザ暴動」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tutusode (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
21行目:
| 被害者 =
| 損害 = 車両82台<ref name="nishi"/>、アメリカ人[[小学校]]3棟、その他の軍関係施設を放火<ref name="ryu"/>
| 防御 = 米軍[[憲兵]]250人、[[琉球]]約500人<ref name="ryu"/>
| 対処 = 34人を[[逮捕]]、うち10人を[[起訴]]
}}
'''コザ暴動'''(コザぼうどう、Koza Riot)とは、[[1970年]][[12月20日]]未明、[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ施政権下の沖縄]]の[[コザ市]](現在の[[沖縄県]][[沖縄市]])で発生した[[アメリカ軍]]車両および施設に対する焼き討ち事件である。直接の契機は米軍人が沖縄人<ref>当時の沖縄住民は日本およびアメリカのどちらの憲法も適用されない不安定な身分であったことを鑑み、以下便宜上「沖縄人」と表記する。公式の表現は「[[琉球住民]]」である。</ref>をはねた[[交通事故]]であるが、その背景には米施政下での圧制、人権侵害に対する沖縄人の不満があった。'''コザ騒動'''(コザそうどう)、'''コザ事件'''(コザじけん)、'''コザ騒乱'''(コザそうらん)とも呼ばれる。
34行目:
米軍施政下の沖縄において、沖縄の人々には日本およびアメリカの憲法どちらも適用されず、身分的にきわめて不安定な立場に置かれていた。
 
米軍人・軍属の起こした犯罪の[[捜査]]権・[[逮捕]]権・[[裁判]]権は米軍当局に委ねられており、加害者は非公開の[[軍法会議]]において[[陪審制]]による評決で裁かれたが、殺人・強盗・強姦などの凶悪犯罪であっても証拠不十分として無罪や微罪になったり、重罪が科されても加害者の本国転勤でうやむやになることも多く、また沖縄の住人の被害者が賠償を受けられることはほとんどなかった。
 
[[琉球警察]]は米軍人・軍属の犯罪への捜査権を持たず、[[琉球列島米国民政府|米民政府]]布令に定められた一定の犯罪で米軍[[憲兵]](MP)が現場にいない場合のみ[[現行犯]]逮捕することができたが、加害者の身柄を速やかにMPに引き渡さなければならなかった。また[[交通事故]]は現行犯逮捕可能な犯罪に含まれず、加害者が公務外(非番)であってもMPが「外人事件報告引継書」にサインしない限り琉球警察は事件として捜査・逮捕すらできなかった。米軍人・軍属による重大事件や不当判決のたびに、[[琉球政府]]を筆頭に立法院、政党、各種団体などは強く抗議し、捜査権・逮捕権・裁判権の移管と被害賠償を強く求めてきたが、なんら改善されなかった。
 
事件当時の沖縄はベトナムからの帰還・一時休暇の兵士で溢れ、戦地で疲弊した米兵は基地外で酒、薬物、女に溺れた。沖縄での米軍人・軍属による犯罪は、それまで年間500件未満だったものが[[1958年]]から増加傾向を見せ、ベトナム派兵が本格化した[[1965年]]から[[1967年]]には1000件を超え、その後は減少傾向にあったものの、暴動の発生した[[1970年]]は960件と急増、そのうち348件がコザ市で発生している。内訳は凶悪犯143件、粗暴犯156件、器物毀棄罪212件で半数以上を占める。これに対し検挙者は436人、検挙率45.3%で、同年の民間犯罪検挙率80%を大幅に下回る。これとは別に交通事故は年間1000件を超え、死傷者は422人に上っている。なにより、加害者が現行犯逮捕されずに基地内に逃げ込めば、琉球警察は手を出せず、MPも追跡捜査をせず事件が迷宮入りする場合が多く、実際に起きた不法行為は上記をはるかに上回る。
60行目:
 
== 事件の勃発 ==
[[1970年]][[12月20日]]午前1時過ぎ、コザ市の中心街にある[[胡屋十字路]]から南に200メートルほどの地点(現[[サンエー (沖縄県)|サンエー]]中の町タウン店駐車場前)で、軍道24号線(現在の県道330号線)を横断しようとした沖縄人軍雇用員(酒気帯び)が、キャンプ桑江(CAMP LESTER)の米陸軍病院所属の米軍人(同じく酒気帯び)の運転する乗用車にはねられ、全治10日間ほどの軽症を負う事故が発生した(第1の事故)。現場には5台のMPカーと1台の琉球警察[[パトカー]]が出動、負傷者の病院搬送と現場検証、加害者の事情聴取を行った。その間、現場に隣接する中の町社交街から地元住民が集まり始めた。MPによる事故処理に対し「第二の糸満事件にするな」「犯人を逃がすな<ref>負傷者の搬送より加害者の移送が先になり、あたかもMPが加害者を逃がそうとしたように見えたので群集が騒ぎ出したという説もある。</ref>」と不信・不満を口々に叫び騒然となったが、警察官の機転で加害者はコザ警察署(現[[沖縄警察署]])に移送された。
 
事故車両の移動が済んだ午前1時35分ころ、現場に沖縄人ガールフレンドを伴った米兵が通りかかり、群集は彼らを挑発的に煽った。MPは2人をMPカーに乗せ移動しようとしたが、群衆はMPカーを取り囲み横転させようとした。他のMP隊員の応援でMPカーは現場から脱出したが、群集は続いて他のMPカーを横転させようとした。
 
この時点で数百人規模になっていた群集は半ば暴徒と化し、公然と車道に出て、当時黄色の[[ナンバープレート]]によって区別されていた米軍人・軍属の車両が走行してくると進路を妨害するなどしたため、MPおよび警察官は秩序維持のため応援部隊を要請。そして午前2時10分ころ、反対車線で走路妨害にあった米兵運転の乗用車が、沖縄人運転の民間車両に追突(第2の事故)。暴徒はこれを取り囲み[[投石]]、運転手に暴行を加えた。またMPにも投石を始め、MPが退いた後に残ったMPカーを横転させ、火を放った。
 
隊伍を組み直したMPは午前2時15分ころ[[拳銃]]による[[威嚇]]発砲を行い、暴行を受けていた運転手を救出。しかし発砲で一旦ひるんだ暴徒はかえって怒りを爆発させ、MPを投石で押し返すとともに、2時30分前後から沿道に駐車中の米軍車両や放置されたMPカーを車道中央へ押し出し、次々と放火した。
 
== 事件の拡大と収束 ==
午前3時ころには、琉球警察は第三号召集(全警察官1200人の最大動員)を発令、米MPも完全武装の兵員配備を要請したが、暴動発生現場の制圧は不可能と判断しいったん周辺へ退いた。最終的に警察官は約500人<ref>勤務外の警官はほとんどが自宅に電話を持っておらず実質的に動員不能だった。</ref>、MP・沖縄人ガード([[警備員]])約300人、米軍武装兵約400人が動員された。また米民政府は午前3時30分、コザ市全域に24時間の「コンディション・グリーン・ワン」を発令した。
 
なお午前3時30分ころ、第3の交通事故が発生しているが被害者は軽症であった。
 
暴徒は二手に分かれて進み、約200人が胡屋十字路から西へ約600メートルに位置する[[嘉手納基地]]第2ゲートから、火のついた車両を押し立てて基地内へ侵入した。基地内ではゲートに設けられているガードボックスや米人学校が放火された。米軍は威嚇発砲、放水で対抗しそれ以上の基地内への侵入を抑えた。また約2000人が事件発生現場から南西へ約1キロメートル離れた島袋三叉路まで押し出して武装兵と対峙。車両への放火、投石が繰り返され、即席の[[火炎瓶]]も使用された。午後5時に米軍はベトナムでも使用していた手投げ[[催涙ガス弾]]の使用を許可、暴徒の行動は分断され沈静に向かった。
 
琉球政府では、屋良朝苗行政主席が東京出張で不在のため、知念朝功[[行政副主席|副主席]]が午前5時55分に現地に到着して事態の収拾を指揮した。警察は宣伝カーを繰り出して群集に帰宅を呼びかけ、午前7時30分までに暴動は自然収束した。結果、車両75台以上<ref>「沖縄県警察史」では75台、「米国が見たコザ暴動」収載の米軍秘密通信では米軍人車両72台、軍車両6台、軍消防車1台、オートバイ3台の計82台。軍有車両を除けば両者の数値は一致する。</ref>が炎上し、米軍人40人、沖縄人ガード5人、米軍属16人、地元住民14人、容疑者7人、警官6人が負傷したが、暴動につきものの民家・商店からの略奪行為は発生しておらず<ref>Aサインバーに放火しようとした者もいたが、同じ沖縄人の説得に応じて中止したという証言あり。[http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-114280-storytopic-86.html 矛盾に満ちた住民対立/コザ騒動から30年]琉球新報2000年12月20日</ref>、米軍人・軍属のみを標的にした暴動であった。MPと琉球警察は当日、21人を現行犯逮捕した。
 
事件上特徴的なのは、政治党派の組織的な指導指揮がなく自然発生的であったこと、また、それまで米軍から利益を得ており、反米・反基地・日本復帰運動に敵対的だったAサインバー・クラブの従業員が、逮捕者も含め積極的に暴動に参加したことである。