「アラーウッディーン・テキシュ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
しまあじ (会話 | 投稿記録)
2012年2月だけ特例
編集の要約なし
3行目:
 
[[File:KonyeUrgenchMausoleum.jpg|thumb|200px|[[クフナ・ウルゲンチ]]のテキシュの廟]]
第4代君主[[イル・アルスラン]]の長男。1172年3月に父が死んだとき、[[ホラズム]]の東、[[スィル川]]下流域のジャンド(現[[カザフスタン]]領)にいたが、ホラズムの宮廷を預かる父の未亡人が実子の[[ジャラールッディーン・スルターン・シャー]](テキシュの異母弟)を擁立した。テキシュは弟の即位を認めず、カラ・キタイ([[西遼]])の支援を受けてホラズムを奪還した。スルターンシャーは母とともに南の[[ホラーサーン]]に逃げ、[[セルジューク朝]]のホラーサーン君主[[サンジャル]]の旧臣でその死後にホラーサーンの支配者となっていた[[ムアイヤド・アイアパ]]を頼った。[[1173年]]に首都[[ウルゲンチ]]で自ら即位を宣言したテキシュは、王位を巡る争いを優位に進め、翌1174年にはホラーサーンに攻め込んでアイアパを敗死させた。
 
スルターンシャーはさらに南下して[[アフガニスタン]]の[[ゴール朝]]に逃れ、今度は王位争いに勝利したテキシュと仲違いしたキタイ人の助けを受けてホラズムに入った。テキシュはウルゲンチに篭って守備を固め、ホラズムを守りきったが、スルターンシャーはそのままキタイ人の援助によりホラーサーン北部の都市[[メルヴ]]を奪い、再びホラズム・シャー朝は南北に分裂した。兄弟はこれら周辺勢力まで巻き込んで長く抗争を続けるが、[[1189年]]になって両者は講和、スルターンシャーはテキシュの王位を認め、テキシュはホラズム・シャー朝の統一君主として正式にスルターンに即位した。