「アブドゥル・マリク」の版間の差分

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'''アブドゥル・マリク・パフラワン'''(Abdul Malik Pahlawan、[[1963年]] - )は、[[アフガニスタン]]の政治家、軍人。大将。[[ラシッド・ドスタム|アブドゥルラシード・ドーストム]]が率いる{{仮リンク|イスラム運動民族|en|National Islamic Movement of Afghanistan}}の有力者だったが、[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)|アフガニスタン内戦]]中に裏切った。
 
==経歴==
=== マザーリシャリーフの戦い ===
{{main|{{仮リンク|マザーリシャリーフの戦い|en|Battles of Mazar-i-Sharif 1997-1998}}}}
1997年5月19日、弟のゴリと共に、ドーストムの退陣を要求し、ターリバーンに対して戦線を開放した。その結果、5月25日にターリバーンは、[[マザーリシャリーフ]]に入城した。5月27日、交渉が妥結しなかったため、アブドゥルは、[[ハザーラ人]]部隊と共にターリバーンに対して戦闘行動を再開した。5月27日~28日の間、約3千人のターリバーン部隊は撃滅され、外務相ゴウス師、航空相マンスール師等が捕虜となった。大部分の捕虜は、マリクの命令により銃殺された。
 
1997年5月29日、自らをイスラム運動民族の党首と宣言した。ドスタムが国外に逃亡したため、1997年5月~8月の間、マリクは、事実上、アフガニスタン北部のウズベク人の指導者となった。
1997年8月~9月、ドスタムがマザーリシャリーフに戻ると、マリクの甥(弟ゴリの息子)がドスタムの娘と結婚し、ドスタムの息子がゴリの娘と結婚するという政略結婚で和解した。
 
1997年9月、ターリバーンの新期攻勢により戦線が崩壊したため、マザーリシャリーフをハザラ人部隊に委ね、シベルガン市地区に撤退した。
 
1998年秋、ウズベク人部隊の壊滅後、アフガニスタンを離れる。
===現在===
1998年から主として[[イラン]]に在住。[[イスラム・カリモフ]]体制を支持し、[[トルコ]]と[[パキスタン]]から支援を得ようとしている。ラッバーニーと[[ロシア]]には敵対している。
 
アフガニスタン自由党を率いている。
 
{{DEFAULTSORT:まりく あふとうる}}
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