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'''パオロ・ボルセリーノ''' ('''Paolo Borsellino''' [[1940年]][[1月19日]]-[[1992年]][[7月19日]])は[[イタリア]]の反[[マフィア]]治安判事である。友人の[[ジョヴァンニ・ファルコーネ]]治安判事らと共にマフィア撲滅に向けて活動していたが、ファルコーネがマフィアに暗殺されてから2ヶ月余りのちに車に仕掛けられた爆弾により暗殺された。
 
 
== 伝記 ==
1940年1月19日、ボルセリーノは[[パレルモ]]市内の貧しい地区ラ・カルサの中流家庭で生まれた。そして1962年、パレルモ大学にて法律学を学んだ彼は優秀な成績で卒業した。1963年、父の死去後、彼は裁判官試験に合格した。翌年より彼はシチリアの各都市(1965年[[エンナ]]、1967年[[マツァーラ・デル・ヴァッロ]]、1969年[[モンレアーレ (パレルモ県)|モンレアーレ]])にて勤務した。
 
1968年に結婚したあとの1975年に彼は[[ロッコ・キンニーチ]]と共に彼の地元であるパレルモへと戻ってきた。そして、その地において、彼は彼の未完の仕事であった勢力を拡大中のシチリア・マフィアとの戦いが始まった。
 
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その様な事件があったが、彼は同じ治安判事のジョヴァンニ・ファルコーネそしてロッコ・キンニーチらと共にマフィアについて、[[シチリア]]とイタリアでのマフィアの政治的経済的コネクションについての調査をし続けた。だが、1983年、ロッコ・キンニーチが彼の車に仕掛けられた爆弾により暗殺された。彼はアントニオ・カポネットによるアンチマフィア・プールに参加した。
 
1986年、ボルセリーノは[[マルサーラ]]のプロクレの長官となり、彼の担当区域内であり、マフィアが多く潜む町[[トラーパニ]]においてマフィアボス達への個人的な反マフィア運動を続けた。また、パレルモにいたファルコーネの協力もあり、彼はシチリア西部での調査活動を行うことが出来た。
 
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ボルセリーノとファルコーネ両判事は、反マフィア裁判での彼らの努力を評価されて、[[2006年]][[11月13日]]、[[タイム (雑誌)|タイム・マガジン]]の「過去60年間のヒーロー」に選ばれた。
 
彼は最後となったテレビ局の取材において、[[1992年]][[5月21日]]、インタビュアーのジャン・ピエール・モスカルドとファブリツィオ・カルヴィに、マフィアと裕福な実業家、例えば後に首相となった[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]とマフィアとの繋がりの可能性について語った。
このインタビュー映像は、不可解なことにイタリア国内のテレビ局で放送されることは余りなかった。
2007年現在までに、そのインタビュー映像はオリジナル版で50分のところを30分に編集されて、2000年に衛星チャンネルのRaiNews 24においてたった一度だけしか放送されなかった。
 
シチリアのコルレオーネ・マフィアのボスである[[サルヴァトーレ・リイナ|"トト"・リイナ]]は現在、ボルセリーノとファルコーネ暗殺を含む多くの罪を犯した結果、終身刑に服している。
 
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多くの学校及び公共施設は彼の名にちなんで名付けられた。また、パレルモ国際空港はファルコーネ・ボルセリーノ空港と名を変え、地元の彫刻家であるトンマーゾ・ゲラシによる記念碑が建てられている。
 
彼の妹、リタ・ボルセリーノは2006年にシチリアの知事選挙に中道左派で立候補、地域での予備選挙には勝利したが、現職のサルヴァトーレ・カッファーロに敗北した。