「相良城」の版間の差分

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近世の相良城は、[[明和]]4年([[1767年]])に[[田沼意次]]が築いたものである。
 
田沼意次は[[御側御用取次]]であった[[宝暦]]8年(1758年)に[[江戸]]の[[呉服橋]]御門内に屋敷を与えられるとともに、相良1万石の領主となったが、この時の相良には城はなく陣屋のみあった。意次はその後、10代将軍[[徳川家治]]の信任を受けて[[老中]]として手腕をふるい、所領も加増を重ねた。[[明和]]4年([[1767年]])には家治の命によって[[神田橋]]御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、築城を許可されて城主格となった。相良城の建設には翌年から取り掛かり11年間の月日を要した。意次は普請工事を家老の[[井上伊織]]に全て委ね、1780年(安永9年)の完成に合わせて62歳になった意次は検分の名目でお国入りを果たした。特に[[天守閣]]を築くことを許されており、縄張りを甲州流[[軍学者]]の[[須藤治郎兵衛]]に任せ、三重櫓の天守閣を築いた<ref>深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社</ref>。
 
相良城は[[萩間川]]、[[天の川]]を外堀として本丸、二の丸、三の丸から成り、その規模は東西500m、南北450mで約7万坪に及ぶ。三重櫓を中心に櫓は6基あり、三重の堀を廻らし、総石垣で、[[安永]]9年([[1780年]])12年の歳月をかけて完成した。田沼はその後もたびたび加増を受け、安永元年(1772年)には5万7千石を領することになる。