「平資盛」の版間の差分
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| 主君 = [[安徳天皇]]
| 氏族 = [[桓武平氏]][[平維衡|維衡]]流([[伊勢平氏]])
| 父母 = 父:[[平重盛]]、母:[[藤原親盛 (下総守)|藤原親盛]]の娘(二条院の内侍)
| 兄弟 = [[平維盛|維盛]]、'''資盛'''、[[平清経|清経]]、[[平有盛|有盛]]、[[平師盛|師盛]]、[[平忠房|忠房]]、[[平宗実|宗実]]
| 妻 = 正室:'''[[持明院基家|藤原基家]]の娘'''<br/>妾:[[建礼門院右京大夫]]
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[[嘉応]]2年([[1170年]])7月3日、[[摂政]]・[[松殿基房]]の車と行き違った時に下馬の礼をとらなかったため、基房の家来と乱闘騒ぎを起こして資盛は恥辱を受けて逃げ帰った。これを知った父・[[平重盛|重盛]]が基房に対して徹底的な報復を行っている([[殿下乗合事件]]<ref>なお『[[平家物語]]』においては報復を行ったのは祖父の[[平清盛|清盛]]となっているが、これは清盛を悪役、重盛を平氏一門の良識派として描写する『平家物語』の演出の都合上の創作と言われている。</ref>)。この時の[[九条兼実]]の[[日記]]『[[玉葉]]』には資盛を「嫡男」と記されており、また同年12月以前においては異母兄であるとされている[[平維盛|維盛]]よりも官位で上回っていた事から当初は重盛の嫡男として扱われていたと見られている。
=== 父の死 ===
[[保延]]4年([[1138年]])7月、父重盛が死去すると、叔父の[[平宗盛]]が棟梁となる。重盛の子息が一門で微妙な立場となる中で、資盛は[[後白河天皇|後白河法皇]]の[[院近臣|近臣]]として勤めている。[[治承]]4年([[1180年]])12月の[[美濃源氏の挙兵]]では、叔父の[[平知盛]]とともに[[近江国]]へ出陣して反乱軍の鎮圧にあたった。
=== 一門都落ち ===
[[寿永]]2年([[1183年]])7月、平氏は[[源義仲]]に敗れ都落ちを余儀なくされる。『[[愚管抄]]』によれば、このときに資盛は寵愛されていた
寿永3年([[1184年]])正月、一時勢力を回復した平氏は[[摂津国]]・[[福原京|福原]]まで進出。正月末に義仲を滅ぼした[[源頼朝]]の代官[[源範頼]]・[[源義経|義経]]の軍勢が平氏追討に向かう。資盛は弟の[[平有盛]]、[[平師盛|師盛]]らと[[播磨国]]三草山に陣を置くが義経軍の夜襲を受け、[[讃岐国]]・[[屋島]]へ敗走した([[三草山の戦い]])。その直後の2月7日、[[一ノ谷の戦い]]で平氏は一門の多くを失う致命的な大敗を喫する。
同年3月、一ノ谷の戦い前後に戦線を離脱した兄の維盛が那智の沖で入水自殺する。この知らせを受けた資盛は大いに嘆き悲しんだ。すでに弟の[[平清経]]が[[豊後国]]で入水自殺しており、一ノ谷では14歳の師盛が討ち死に
清経と維盛の入水を知った建礼門院右京大夫から慰める手紙を受け取った資盛は、「今はただ自分の命も今日明日の事なので、ものを思う事をやめようという心境です」と返事を送り、兄弟の死について、 {{Quote|「あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かく憂きことを 見るぞかなしき」<br />(生きていることが生きていることにもならない、この世のうちにあって、その上こんなつらい目にあうのは悲しいことです)}}
と詠んでいる。これが右京大夫への最後の便りとなった。
同年12月、資盛は[[備前国]]児島で源範頼と戦い敗北([[藤戸の戦い]])。[[元暦]]2年([[1185年]])3月24日、平氏は[[壇ノ浦の戦い]]で敗れ、滅亡に至った。資盛は一人残った弟の有盛と、従弟の[[平行盛]]とともに壇ノ浦の急流に身を投じて自害した
== 伝承 ==
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