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{{基礎情報 中国君主
|名 =忠敬王 李茂貞
|代数 =
|呼称 =王
|画像 =
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|在位期間 =[[901年]] - [[924年]]
|都城 =鳳翔
|諱 =宋文通→李茂貞
|字 =正臣
|小字 =
|諡号 =忠敬王(後唐の秦王として)
|廟号 =
|生年 =[[大中]]10年([[856年]]
|没年 =[[同光]]2年([[924年]]
|父 =[[宋端]]
|母 =
|皇后 =劉皇后
|陵墓 =
|年号 =
|注釈 =
}}
'''李 茂貞'''(り もてい)は、[[唐]]末から[[五代十国時代]]の[[岐]]の王。[[深州]]博野(現在の[[河北省]][[保定市]][[レイ県 (保定市)|蠡県]])の出身で初名は'''宋 文通'''。
 
====
=== 士卒から王へ ===
[[梁州]]博野(現在の[[河北省]])で生まれた李茂貞は初め[[]]の[[近衛兵]]である「[[神策軍]]」の一兵卒であったが、[[黄巣の乱]]の乱の鎮圧で活躍して名を挙げて[[僖宗 (唐)|僖宗]]に近侍を許され。やがてその軍事的功績により[[節度使]]に任じられて皇帝の姓である「李」姓を与えられて'''李茂貞'''と名乗るようになった。
 
[[光啓]]4年([[888年]]、[[鳳翔県|鳳翔]][[節度使[[李昌符]]の反乱を鎮めた李茂貞はその後任任じられて検校太尉・侍中・隴西郡王に任じられた。李茂貞は庶民出身であるために民間に通じており、いた李茂貞は民政に力を注ぎ領内の戦乱による荒廃からの復興を成功させ
 
[[大順 (唐)|大順]]元年([[891年]]、隣接する[[興元]][[節度使]]の反乱を鎮めてその本拠であった[[漢中]]を支配すると朝廷が派遣する後任[[節度使]]を妨害し、腹心を[[留後]][[代官]])として派遣したため、実質的に2つの節度使を兼任する事となる。これに激怒した唐の[[昭宗 (唐)|昭宗]]は[[乾寧]]2年([[894年]]に李茂貞討伐軍を起こすが、李茂貞が倒された場合に次の粛清の対象となることを恐れた他の[[節度使]]が皇帝朝廷への協力を拒んだために討伐は失敗、李茂貞が[[関中]]全域を平定する結果をもたらした。
 
これに勢いづいた李茂貞は[[光化]]4年([[901年]]に昭宗に迫り'''岐王」の称号を授かっ'''に封じられた上に、皇帝昭宗を自分の根拠である[[鳳翔]]に遷して遷都を宣言するのであるした。この時1020二十州を統治した李茂貞は帝位を簒奪でき窺える勢力を有するに至った。
 
=== 即位自立 ===
唐の[[昭宗 (唐)|昭宗]]より'''岐王'''に封じられた李茂貞であるが、急速な勢力拡大を遂げた李茂貞対して、他の[[節度使]]が激しく反発し、[[朱全忠]]や[[李克用]]ら有力者が打倒李茂貞討伐へ動き出す。[[天復 (唐)|天復]]3年([[903年]][[宝鶏市|鳳翔]]を包囲した[[朱全忠]]は[[前蜀|蜀]]の[[王建 (前蜀)|王建]]と結んで挟撃、李茂貞は昭宗を[[朱全忠]]に引き渡して降伏した。
 
領土も二道七州に削減され,没収された領地は朱全忠と王建によって分割された。
 
[[天祐 (唐)|天祐]]4年([[907年]]唐から禅譲を受けた朱全忠は唐を滅亡させ[[後梁]]を建国する。この動きに合わせ各地方の藩鎮も次々と地方政権を樹立し「王」や「皇帝」を自称するに至った。先の戦いで勢力をがれた李茂貞であるが王府を開き、百官を設置し自立政権としての体裁を整えた。また居所を宮殿、妻劉氏を[[皇后]]と称すなどしたが、昔日の勢力は無く、後梁と[[前蜀]]はさまれ細々と命脈を保っていたに過ぎなかった
 
[[後唐]]の荘宗[[李存勗]]が[[後梁]]を滅ぼすと、天祐21年([[924年]]に李茂貞はその圧力に屈してその領土を[[李存勗]]荘宗に献上し、岐はここに滅亡した。李存勗荘宗[[降伏した李茂貞を後唐]]の諸侯王として秦王」の称号を与えに封じたが、国家としての「岐」はここに滅亡した。ほどなく李茂貞はして病死し、鳳翔県(現在の[[陝西省]][[宝鶏市]][[金台区]]陵郷陵村の東)で妻劉氏との[[合葬墓]]に葬られた。[[1998年]]にこの墓が発見され、[[1999年]]11月と[[2001年]]4月から9月にかけて発掘調査が行なわれた。その報告集も公刊されている。
 
==子女==
===子===
*[[李従ガン|李従曮]]
 
== 参考文献 ==