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[[画像:HeiankyoDaigokudenAto.jpg|thumb|250px|平安京の大極殿跡の碑 / [[京都市]][[上京区]]の[[千本通|千本]][[丸太町通|丸太町]]交差点北西角の児童公園内に所在。]]
'''大極殿'''(だいごくでん)は、古代の[[日本]]における[[朝廷]]の[[正殿]]。
'''大極殿'''(だいごくでん)は、古代の[[朝廷]]の[[正殿]]。[[宮城]]([[大内裏]])の[[朝堂院]]の北端中央にあり、殿内には[[高御座]](たかみくら)が据えられ、[[即位の礼|即位の大礼]]や国家的儀式が行われた。中国の[[道教]]では[[天皇大帝]]の居所をいう。「大極殿」の名は、万物の根源、[[空|天空]]の中心を意味する「[[太極]]」に由来する。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である<ref>渡辺(2001)p.33-36</ref>。
 
==概要==
日本最初の大極殿が置かれた宮殿については、[[飛鳥浄御原宮]]説([[福山敏男]]・[[小澤毅]]・[[渡辺晃宏]]ら)<ref>飛鳥浄御原宮説の提唱は、福山敏男(1984)、小澤毅(1997)、渡辺晃宏(2002)などに収載。</ref>と[[藤原宮]]説([[狩野久]]・[[鬼頭清明]]ら)<ref>藤原宮説の提唱は、狩野久(1990)、鬼頭清明(2000)などに収載。</ref>に分かれている。
'''大極殿'''(だいごくでん)は、古代の[[朝廷]]の[[正殿]]。[[宮城]]([[大内裏]])の[[朝堂院]]の北端中央にあり、殿内には[[高御座]](たかみくら)が据えられ、[[即位の礼|即位の大礼]]や国家的儀式が行われた。中国の[[道教]]では[[天皇大帝]]の居所をいう。「大極殿」の名は、万物の根源、[[空|天空]]の中心を意味する「[[太極]]」に由来する。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である<ref>渡辺(2001)p (2001) p.33-36</ref>。
 
日本最初の大極殿が置かれた宮殿については、[[飛鳥浄御原宮]]説([[福山敏男]]・[[小澤毅]]・[[渡辺晃宏]]ら)<ref>飛鳥浄御原宮説の提唱は、福山敏男(1984) (1984) 、小澤毅(1997) (1997) 、渡辺晃宏(2002) (2002) などに収載。</ref>と[[藤原宮]]説([[狩野久]]・[[鬼頭清明]]ら)<ref>藤原宮説の提唱は、狩野久(1990) (1990) 、鬼頭清明(2000) (2000) などに収載。</ref>に分かれている。
 
== 原型 ==
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== 変遷 ==
===飛鳥浄御原宮「エビノコ大殿」===
『日本書紀』には、[[681年]](天武10年)2月、[[天武天皇]]と皇后(のちの[[持統天皇]])は諸臣を「大極殿」に召し、[[飛鳥浄御原令]]の制定を指示したという記事がある。ここで「大極殿」という殿舎の名があることに注目するのが、冒頭に掲げた福田・小澤・渡辺らである<ref name=watanabe1>渡辺(2001)p (2001) p.12-18</ref>。
 
飛鳥浄御原宮の所在地は、近年の調査成果では、[[飛鳥京]]跡の上層遺構をあてるのが通説となっており、浄御原宮は、後飛鳥岡本宮の内郭に東南郭を加えて完成したとされている。東南郭は所在する字名より通称「エビノコ郭」と呼ばれる一郭であり、そのなかから大規模な正殿の跡を発見している。これが通称「エビノコ大殿」である。渡辺晃宏は、この大殿こそ、『日本書紀』記載の大極殿の可能性が高いとしている<ref name=watanabe1/>。
 
なお、飛鳥京跡上層遺構からは「前殿」と称される東西建物跡2棟が検出されており、これが飛鳥浄御原宮にともなう朝堂相当施設ではないかとされている。ただし、「エビノコ郭」南側には[[飛鳥川 (奈良県)|飛鳥川]]が間近に迫っていることから、広大な朝庭を確保することは困難であったろうと考えられる<ref name=furuichi226>古市(2002)p (2002) p.226-244 </ref>。
 
===藤原宮の大極殿===
規模や内部の殿堂配置の明確な宮城としては、[[条坊制]]の採られた初の本格的[[都城]]として建設された[[藤原京|新益京]](藤原京)の藤原宮が最古である。藤原宮は、周辺京域の建設が進められたあと、北の[[耳成山]]、西の[[畝傍山]]、東の[[天香具山]]のいわゆる「[[大和三山]]」のなかに造営され、[[694年]](持統8年)に正式に遷された宮である。発掘調査によれば、藤原宮造営は天武天皇の時代に着手されており、その造営にあたっては、南北大溝や条坊にともなう[[側溝]]が埋め立てられたのちに大極殿院の北面回廊が建設されていることから、藤原宮の大極殿造営以前に条坊道路が造成されていることが判明している<ref>仁藤(1998)p (1998) p.233-240</ref>。
 
藤原宮の大極殿は大極殿院の一郭のほぼ中央に位置している。また、大極殿院の南面にあって太政官院(のちの朝堂院)との境界をなす門(大極殿閤門(こうもん))は、藤原宮のちょうど中心に位置する。藤原宮は新益京(藤原京)のほぼ中央に位置することから、大極殿閤門は京域全体からみてその中心にあたる。ここに『[[周礼]]』考工記など[[漢籍]]にみえる都城のあるべき姿にもとづいて設計された「理念先行型の都城」をみることができる<ref name=ozawa>小澤(2002)p (2002) p.235-257</ref>。
 
いずれにせよ、朝堂院(太政官院)の正殿としての大極殿が藤原宮をもって成立した点については、飛鳥浄御原宮説に立つ研究者も共通の認識に立っており、小澤毅も、原則としては、天皇の独占的な空間としての大極殿およびそれを取り囲む一郭は藤原宮において成立したとしている<ref name=ozawa/>。
 
なお、天武・持統の代にあっても辺境の民を[[飛鳥寺]]の西の広場で饗応していたことが『日本書紀』より明らかであるが、文武朝にあってようやく、藤原宮の大極殿や太政官院へ移動したものと考えられる<ref>仁藤(1998)p (1998) p.251-258</ref>。
 
===平城京・恭仁京の大極殿===
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[[恭仁京]](くにきょう)遷都までの大極殿を第一次大極殿、[[奈良]]に都が戻ってからの大極殿を第二次大極殿という。第一次大極殿は[[平城宮]]の正門である[[朱雀門]]の真北に位置し、第二次大極殿は平城宮東寄りの[[壬生門]]北に位置している。第二次大極殿跡は近世まで「大黒(ダイコク)の芝」と呼ばれた基壇が残っていた。この命名は、平城京遷都当初は朱雀門北の地域に大極殿が設けられたものの、恭仁京大極殿の規模と一致するところから[[745年]]([[天平]]15年)に壬生門北に移動したものと考えられたためであったが、第二次大極殿跡の下層から掘立柱建物の遺構が検出され、それが大極殿・朝堂院と同じ建物配置をとることから、結局、奈良時代の前半には朱雀門北の広大な前庭をもち朝堂2堂をともなう第一次大極殿(中央の大極殿)と壬生門北の朝堂12堂よりなる太政官院のさらに北にある内裏南面の大極殿(東側の大極殿)の2棟あることがわかった。
 
中央の第一次大極殿の周囲は[[築地塀|築地]][[回廊]]で囲まれ、南の朝堂区域とつながる「閤門」があった。この区域は「大極殿院」と呼ばれる。広い前庭をともない、前庭から1段高い位置に大極殿が建設されているが、これは平安宮の龍尾壇(竜尾壇 りゅうびだん)の原型と考えられる。[[正月]]の[[元日]]には大極殿前庭に七本の宝幢(ほうどう)が立てられ諸臣の[[朝賀]]が行われた。他に、[[即位の礼|即位式]]や外国使節謁見などの[[朝儀]]の空間として使用されていたと考えられる<ref name=watanabe2>渡辺(2001)p (2001) p.100-106</ref>。[[元正天皇]]や[[聖武天皇]]の即位も大極殿院でおこなわれている。
 
それに対し、第二次大極殿下層の東側大極殿は、日常の[[朝政]]にあたる空間だったと考えられ、このような機能分化は、[[唐]][[長安|長安城]]の[[太極宮]]太極殿と[[大明宮]]含元殿の影響を受けたものと指摘される<ref name=watanabe2/>。
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奈良時代の後半は、中央の第一次大極殿院の跡地は朝儀の場としては使われなくなり、儀式の機能は東側、壬生門北の第二次大極殿に集約されたものと考えられる。したがって、壬生門北は、北より<内裏、大極殿、12堂の朝堂よりなる太政官院(朝堂院)、2堂の[[朝集殿]]、壬生門>が一直線に建ち並ぶ形態となり、壬生門を入ってすぐ北の両側には東に式部省、西に兵部省の建物があるという配置となった。
 
第一次大極殿地区に関しては、仁藤敦史が[[木簡]]や[[史料]]にみられる「西宮」を第一次大極殿地区に想定している。すなわち、[[饗宴]]などに用いられてきた第一次大極殿地区が居住区画に改造されたとみる<ref name=nitoh1>仁藤(1998)p.297-301</ref>。その改造は、発掘調査の成果からは、平城京への還都([[745年]])直後ではなく、早くとも[[天平勝宝]]年間([[749年]]-[[757年]])以降と考えられており、[[天平神護]]([[765年]]-[[767年]])のころには積極的な改造がなされた形跡がない<ref name=nitoh1/>。仁藤は、このことを天平勝宝元年の[[聖武天皇]]の[[孝謙天皇]]への譲位、すなわち「聖武上皇」の成立と深い連関があるのではないかと推測している<ref>仁藤(1998)p (1998) p.301-303</ref>。
 
なお、奈良建都1300年に当たる[[2010年]]に合わせ、平城宮跡に第一次大極殿が実物大で復元された。(→[[平城遷都1300年記念事業]])
 
復元された平城宮第一次大極殿の屋根には、中国古代建築の類例に倣い、大棟中央飾りが設置されている。ただし、これまで平城宮跡からは大棟中央飾金具の出土例がない。そのため、奈良時代前後の事例および資料の収集調査を通じ、この金具の意匠設計を進めたという。
宝珠形の大棟中央飾りの類例として、初唐の敦煌莫高窟第338338窟壁画の邸宅(宮殿?)?)、隋の訓西西安出土仏殿形式石棺などがある<ref>山田ほか (2006) </ref>。
 
<gallery>
ファイル:HeijokyusekiDaigokuden.jpg|復元された平城宮跡第一次大極殿
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[[794年]](延暦13年)に遷都された[[平安京]]の大極殿はそれ以前のものが築地回廊で囲まれ、閤門を持っていたのと異なり、南の朝堂と直接つながる構造となった。すなわち、朝堂院は長岡京の時代にくらべ、いっそう一体化を深めた。ただし大極殿は龍尾壇上に建っており、その境界には朱欄(朱色の手すり)が設けられ、朝堂と大極殿とは「龍尾道」と呼ばれる階段で往来した。龍尾壇は今日の[[平安神宮]]でも見ることが出来る。大極殿の後背には「小安殿」(こあどの)と呼ばれる殿舎が軒廊(こんろう)でつながり、天皇出御の際に休憩所として利用された。また、龍尾壇を昇った左右には「白虎楼」「蒼龍楼」という小[[楼閣]]が対置されていた。
 
[[9世紀]]中ごろになると、天皇が宮城(大内裏)から出かけることは、[[賀茂川]]、臣下の邸宅、[[太上天皇|上皇]]の居所などごく一部に限られるようになり、はなはだしくは「大極院行幸」の表現さえ生まれたという<ref>坂上(2001)p (2001) p.131。原出典は鈴木圭二「日本古代の行幸」</ref>
 
[[平安時代|平安末期]]、[[後白河天皇|後白河法皇]]の命で作られた『[[年中行事絵巻]]』には東西11[[間]]、南北4間で、[[朱]]塗りの柱と[[瓦葺屋根|瓦葺き]][[入母屋造]]の[[屋根]]に金色の[[鴟尾]]を戴く大極殿が鮮やかに描かれており、平安神宮大極殿や平城宮跡の大極殿復元事業でも参考とされた。なお、『年中行事絵巻』や、[[1895年]]([[明治]]28年)京都市参事会によって編纂された『平安通志』には、単層の大極殿が描かれているが、大極殿殿舎は火災により2度も建て替えられており、[[970年]]([[天禄]]元年)成立の『[[口遊]](くちずさみ)』に「雲太、和二、京三」と見えるように、当初は[[出雲大社]]や[[奈良]]の[[東大寺]]大仏殿に匹敵する大建築であり、『年中行事絵巻』所載のものは[[1072年]]([[延久]]4年)に建て替えられた姿で、本来は重層(2階建て)であったとも推測される。