「ヴィトルト・ルトスワフスキ」の版間の差分

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==略歴==
*[[1913年]][[1月25日]]、ポーランドのワルシャワに生まれた。
*[[1937年]][[ショパン音楽アカデミー|ワルシャワ音楽院]]を卒業した
*[[1954年]]に代表作、[[管弦楽のための協奏曲 (ルトスワフスキ)|管弦楽のための協奏曲]]を作曲した。UNESCO国際作曲家会議で第一位受賞、頭角を現す
*[[1959年]] - [[1965年]]は、 国際現代音楽協会ISCMのポーランド支部委員に選ばれた
*[[1963年]]からは、[[ヨーロッパ]]全土で活躍。各地で絶賛される。
*[[1994年]][[2月7日]]、[[ヴァイオリン協奏曲]]を作曲中に急逝した。81歳。
*[[1983年]]からは、伝統的なスタイル「交響曲」、「協奏曲」、「ファンファーレ」、「パルティータ」といった楽曲を作曲する事が優勢になった。
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*[[1994年]][[2月7日]]、[[ヴァイオリン協奏曲]]を作曲中に急逝。81歳。
 
== 作風 ==
作曲時期、特に「ヴェネチアの遊び」以前と以後で作風は大きく変わるが、音楽の持つエネルギーを完璧に制御する技術を手中に収め、クライマックスを築く書法は生涯全体において共通する。
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[[クリスティアン・ツィマーマン]]の完璧な演奏マナーに支えられた「ピアノ協奏曲」や「交響曲第四番」も同路線で作曲されている。[[1993年]]の「[[ロサンジェルス・フィルハーモニック]]のためのファンファーレ」(Fanfare for Los Angeles Philharmonic)でも、金管の同音連打がかつての彼の様式を偲ばせるが、楽譜は定量記譜の中に収まっている。
 
京都賞を受賞の際も車椅子の類は一切用いず、心身ともに充実している感を多くの人々に印象付けたものの、1994年に急に体調を崩して逝去。夫人もその数ヵ月後に後を追った。武満徹に向かって「トオル、メロディーについて考えているか?これからの作曲家も常にメロディーのことを考えなければならない(出典:武満徹著作集VOL4」と語ったように、旧来の音楽語法への深い理解は全時期を通じかわらなかった。
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==エピソード==
*[[ヨシフ・スターリン]]没後ほどなくして、ソ連政府の一切の文化的抑制に対して屈しないことを公的に表明した。
*{{要出典範囲|国際現代音楽祭で自作品が演奏されていた[[松平頼則]]に向かって、「この作品をどうしてコンクールに出さない?公募枠では余りにもったいない。出せば間違いなく優勝だ」と激励した|date=2012年12月}}。ちなみにその作品は「右舞」であり、その後ローマ国際作曲コンクールで優勝した作品が「左舞」である。この経緯は松平のFONTEC作品集のライナーノーツに詳細に経緯が書かれている。
*国際的な名声を表彰して、後年[[ヴィトルト・ルトスワフスキ国際作曲コンクール]]、[[ヴィトルト・ルトスワフスキ国際チェロコンクール]]、[[ヴィトルト・ルトスワフスキ国際指揮コンクール]]が開催されることとなった。そのコンクール本選会の際に、「作曲家の質は学歴ではなく、作品で選ばれるべきです」と江村哲二へ向かって述べた。
*クラシック音楽に近かったこともあり、フィテルベルク国際指揮コンクル、ルトスワフスキランドの国際指揮コンクールは、最終審査で必ず彼の作品を選択できる。
 
==主要作品==