「カラブリア州」の版間の差分
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=== 古代 ===
[[File:Magna Graecia.jpg|thumb|200px|マグナ・グラエキア(紀元前280年ごろ)]]
カラブリアに最初に定住したのは、[[オスク語]](
[[ギリシャ人]]たちは早期からこの地方の海岸地域に盛んに移住し、いくつかの都市を築いた。イタリア半島における最初の都市である
ギリシャ人は紀元前3世紀までに、北からやってきたオスク語を話す部族によって征服された。かれらの中は[[サムニウム]]人{{enlink|Samnites}}の一派であるルカニア人{{enlink|Lucani (ancient people)}}や、その分枝であるブルッティ人(ブルティウム人){{enlink|Bruttii}}が含まれていた。ブルッティ人はギリシャ人の諸都市を征服すると、現在のカラブリア地方に支配を打ち立て、自らの都市群を建設した。ブルッティ人の首都として建設されたのがコセンティア(現在の[[コゼンツァ]])である。
ローマ人は紀元前3世紀、ブルッティ人たちの激しい抵抗を排してこの地方を征服した。ローマ人にとっては、イタリック系の人々から受けた最初の本格的な抵抗であった。[[帝政ローマ]]初期、[[アウグストゥス]]はこの地方を[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]第3行政区「ルカニア・エト・ブルッティイ」
=== 中世・近世 ===
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=== 近代 ===
ナポレオン時代にはナポレオンの兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]](ジュゼッペ・ボナパルテ)がナポリ王となり、ついで
[[1848年革命]]に際しては、カラブリアは農民反乱の舞台となった。両シチリア王国での一連の農民反乱は、イタリア統一劇の舞台を準備した。1860年、[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]率いる義勇軍([[千人隊]]、あるいは[[赤シャツ隊]])はシチリアを制圧、メッシーナ海峡を渡ってカラブリアのレジスタンスに迎えられ、9月にはナポリに入城する。その後、イタリア統一(とくに教皇領の措置)を巡ってガリバルディとイタリア王国軍の間には確執が生じ、1862年にガリバルディは義勇軍とともにカラブリアの山岳地帯を占拠する。1862年8月には王国軍と義勇軍が衝突(
== 行政区画 ==
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