「カラブリア州」の版間の差分

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=== 古代 ===
[[File:Magna Graecia.jpg|thumb|200px|マグナ・グラエキア(紀元前280年ごろ)]]
カラブリアに最初に定住したのは、[[オスク語]]([[インド・ヨーロッパ語族]][[イタリック語派]][[オスク・ウンブリア語群]]の言語)を話す諸部族であった。そのうち2つの部族は、{{仮リンク|オイノトリア人{{enlink|en|Oenotrians}}({{lang|grc|Οἰνωτρία}}、直訳すれば「ブドウを栽培する土地の人々」の意)、{{仮リンク|イタロス人{{enlink|en|Italus}}({{lang|grc|Ἰταλός}})と呼ばれた。ギリシャ人たちが最初にイタロス人と接触したことから、この地域は「イタリア」の名で呼ばれた最初の地域となった。
 
[[ギリシャ人]]たちは早期からこの地方の海岸地域に盛んに移住し、いくつかの都市を築いた。イタリア半島における最初の都市である Rhégion レギオン{{lang|grc|Ῥήγιον}}, 現在の[[レッジョ・ディ・カラブリア]])、{{仮リンク|シュバリス|en|Sybaris}}({{enlinklang|Sybarisgrc|Σύβαρις}}, 現在のシバリ([[カッサーノ・アッロ・イオーニオ]]の分離集落))、数学者[[ピタゴラス]]が晩年を過ごしたクロトン({{lang|grc|Κρότων}}, 現在の[[クロトーネ]])、エピゼフュリオイ・ロクロイ({{lang|grc|Επιζεφύριοι Λοκροί}}, 現在の[[ロクリ]]などで、これら[[マグナ・グラエキア]]の有力な都市は紀元前6世紀から紀元前5世紀にかけて建設された。
 
ギリシャ人は紀元前3世紀までに、北からやってきたオスク語を話す部族によって征服された。かれらの中は[[サムニウム]]人{{enlink|Samnites}}の一派であるルカニア人{{enlink|Lucani (ancient people)}}や、その分枝であるブルッティ人(ブルティウム人){{enlink|Bruttii}}が含まれていた。ブルッティ人はギリシャ人の諸都市を征服すると、現在のカラブリア地方に支配を打ち立て、自らの都市群を建設した。ブルッティ人の首都として建設されたのがコセンティア(現在の[[コゼンツァ]])である。
 
ローマ人は紀元前3世紀、ブルッティ人たちの激しい抵抗を排してこの地方を征服した。ローマ人にとっては、イタリック系の人々から受けた最初の本格的な抵抗であった。[[帝政ローマ]]初期、[[アウグストゥス]]はこの地方を[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]第3行政区「ルカニア・エト・ブルッティイ」(Regio{{enlink|Regio III Lucania et Bruttii)Bruttii||it}}に編成した。
 
=== 中世・近世 ===
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=== 近代 ===
ナポレオン時代にはナポレオンの兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]](ジュゼッペ・ボナパルテ)がナポリ王となり、ついでフランスの将軍(ナポレオン兄弟の義弟である[[ジョアシャン・ミュラ]](ジョアッキーノ1世)がその地位を継いだが、ミュラはナポレオンの没落とともに失墜し、[[ピッツォ]]の街で処刑されている。[[1816年]]、シチリア王国とナポリ王国が統合され、[[スペイン・ブルボン朝]]のもとで[[両シチリア王国]]が建国された。
 
[[1848年革命]]に際しては、カラブリアは農民反乱の舞台となった。両シチリア王国での一連の農民反乱は、イタリア統一劇の舞台を準備した。1860年、[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]率いる義勇軍([[千人隊]]、あるいは[[赤シャツ隊]])はシチリアを制圧、メッシーナ海峡を渡ってカラブリアのレジスタンスに迎えられ、9月にはナポリに入城する。その後、イタリア統一(とくに教皇領の措置)を巡ってガリバルディとイタリア王国軍の間には確執が生じ、1862年にガリバルディは義勇軍とともにカラブリアの山岳地帯を占拠する。1862年8月には王国軍と義勇軍が衝突([[{{仮リンク|アスプロモンテの戦い]]|en|Battle of Aspromonte}})、ガリバルディは負傷し、同志たちも王国軍に捕えられた。
 
== 行政区画 ==