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シャムシ・アダド1世の王国が崩壊して以来、小規模勢力に過ぎなかったアッシリアが、有力国として台頭するのがこの時代である。中アッシリア時代の初期にはアッシリアはミタンニ王国の勢力圏下に置かれていた。このためこの時期のアッシリアに関する史料は少ない。アッシリア史における転機となったのが[[アッシュール・ウバリト1世]]の治世である。彼の時代に、アッシリアはミタンニの影響力を完全に排除し、大国としての道を歩み始めることになった。このことは彼がエジプト王へ向けて送った外交文書[[アマルナ文書]]からも確認できる。当時オリエント世界はヒッタイト、ミタンニ、バビロニア、エジプト等の列強諸国が君臨していたが、ミタンニを打倒したことによってその遺領を獲得し、バビロニア、ヒッタイトとも戦って勝利を収め、アッシリアはオリエント世界に確固たる地位を築いた。[[トゥクルティ・ニヌルタ1世]]の時代には、はじめてアッシリア王がバビロニアを征服し、これを支配下に納めることに成功している。だが、彼の死後は[[前1200年のカタストロフ]]が起こり、政治混乱によって勢力が減衰した。[[ティグラト・ピレセル1世]]の時代には一時回復したものの、中アッシリア時代の後半には[[アラム人]]の侵入によって国内が混乱しアッシリアは混乱期に入ったため、残存史料も少なく、政治史の復元が困難になる。
 
国家体制においては、アッシュール・ウバリト1世以来領土の拡大を続けるにつれて、'''アッシュルの地'''(マート・アッシュル:māt Ashur)と呼ばれる神格化された領域も、都市アッシュルから外部へと拡大し、それに対応して伝統的なアッシュルの副王と言う称号と合わせて'''アッシュルの地の王'''と言う王号も新たに使用されるようになった。こうしたアッシリアの「本国」を形成する諸州はアッシュル神に対する奉納を行っていた。アッシリア地方とも言うべきまとまった領域の姿が明らかになったともいえる。この外側にアッシリアによって征服された属国が広がっており、アッシリア国家はこの本国と属国によって形成されていた。