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[[ファイル:Empire neo assyrien.png|thumb|right|350px|アッシリア帝国の版図]]
アッシリアが全オリエント世界を支配する初の帝国を打ち立てるのがこの時代である。この時代は古代オリエント史において最も記録史料が豊富な時代であり、詳細な政治史の復元が可能である。占星術などの記録が豊富に残っており、天文学的見地から非常に正確な年代確定が可能であるほか、[[アッシリア王名表]]、リンム表([[#概要|概要]]を参照)、[[アッシリア・バビロニア関係史]]に代表される年代誌、各種行政文書、法律文書、条約、記念碑文などが分野の偏りがあるものの大量に残存している。[[アッシュール・ダン2世]]・[[アダド・ニラリ2世]]等によって中アッシリア時代後期の混乱が収められた後、アッシリアの王達は盛んに遠征を行い、次々と領土を拡大していた。いわゆる'''アッシリア帝国'''と呼ばれる時代に入るのは[[ティグラト・ピレセル3世]]の時代である。彼はバビロニアやヘブライ人の記録でプル(Pul)と呼ばれた。被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれてこの蔑称で記録されたとされる。彼の治世から[[アッシュールバニパル]]の治世までの100年あまりの間にアッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。この時代のアッシリア政治史における重要案件はバビロニア問題であった。ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを完全征服して以降も、事あるごとに[[エラム]]({{仮リンク|フンバンタラ朝|ru|Новоэламская династия}})の支援を受けたバビロニアが反乱を起こし、その統治はアッシリア王達の頭痛の種であり続けた。ティグラト・ピレセル3世以降、バビロニアの反乱に直面しなかった王はほとんどおらず、[[アッシュールバニパル]]がエラムを滅亡([[:en:Battle of Susa]])させたものの、[[新バビロニア]]が誕生してその勢ないはさらに増した。[[エサルハドン]]の時代には[[古代エジプト|エジプト]]にまでその領域が広がった。この時代の[[歴史的シリア|シリア]]におけるアッシリアの行動は[[ヘブライ人]]達によって[[旧約聖書]]に記録されている。
 
アッシリアはこの帝国を維持するために各種の方策を講じた。最も有名なものの一つが'''大量捕囚政策'''としてしられる被征服民の強制移住である。強制移住自体はオリエント世界に広く見られた手段であるが、アッシリアのそれはその組織性と規模において史上例を見ないものである。特にティグラト・ピレセル3世の治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的としてたびたび行われた。