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== 経歴 ==
=== 延久蝦夷合戦 ===
{{Main|延久蝦夷合戦}}▼
[[治暦]]3年([[1067年]])、[[陸奥国|陸奥]]守に任ぜられる。[[延久]]2年([[1070年]])、[[後三条天皇]]の[[勅命]]により[[蝦夷]]征伐に赴き、[[清原貞衡]]([[清原
基通は義家の意を受けて頼俊が陸奥に勢力を伸ばすのを妨害するために事件を起したとも見られている。ちなみに、同じ解状には「荒夷(あらえびす)が兵を発し、黎民が騒擾す」とあり、蝦夷が依然として朝廷の支配に服さぬことを記している。治暦3年(1067年)以来、[[出羽清原氏|清原氏]]の助力を以って衣曾別嶋荒夷(えぞがわけしまあらえびす)”と“閉伊七村山徒を平定し日本の東端(北端)を[[津軽海峡]]まで到達させたこの大規模な一大事業は延久6年([[1074年]])まで行われ、後に[[延久蝦夷合戦]]といわれた。
▲{{Main|延久蝦夷合戦}}
=== 戦後 ===
この戦では頼俊はさしたる恩賞を受けなかったが、その軍事力のほとんどを頼んでいた
その後の[[応徳]]3年([[1086年]])に頼俊が延久蝦夷合戦での恩賞を求めて記したとされる前陸奥守源頼俊申文写には「前陸奥守従五位上源朝臣頼俊誠惶誠恐謹言、 …依 綸旨召進武蔵国住人平常家、伊豆国●●●散位惟房朝臣、 条条之勤不恥先蹤者也…」と記してあり、延久蝦夷合戦において[[豊島常家]]らの活躍があったことも記している。
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