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[[ファラナ]]の[[マリンケ族]]に生まれ、郵便労働者として労働組合を基盤に政治に進出し1952年に[[ギニア民主党]](PDG)の書記長に就任。1953年にゼネストを指導して影響力を拡大し1956年にフランス国民議会議員に選出された。
 
1958年の[[フランス第五共和政]]憲法のもとの住民投票で、他の植民地がフランス共同体内の自治共和国となった中で、唯一完全独立を選んだ。このときトゥーレは、「'''隷属の下での豊かさよりも、自由のもとでの貧困を選ぶ'''」とったといわれる。しかし、フランスはギニアの完全独立を認めるのと引き換えに一切の援助を打ち切り、それまで植民地行政官として働いていた白人たちも一切合切をフランス本国に持ち帰った(書類どころか事務机まで持ち去ったという)。
 
そのためギニアの行政・経済は独立の瞬間に麻痺状態となったため、トゥーレは[[ソビエト連邦|ソ連]]と結ぶことでこの難局を切り抜けようとした。社会主義路線をとり、1967年からは[[中華人民共和国]]の[[人民公社]]の影響を受けた地方組織が作られている。それでも成果をあげることができず同時に政敵および人権論者の抑圧を行ったため1977年に物資の不足などから暴動が起こり、国内経済を自由化政策に変更したが成果は上がらず、経済の不振は続いた。

国内の不満を抑えるために独立時から[[独裁]]政治を行い、その統治下においては密告や政治犯の粛清が横行し、[[恐怖政治]]の様相を呈した。[[アフリカ統一機構]]初代事務総長である[[ディアロ・テリ]]など、反体制派とみなされた者は首都[[コナクリ]]近郊の政治犯収容所、ボワロ・キャンプに送られ、食事を与えられないまま[[餓死]]させられるなどして虐殺された。当時、ギニア人口500万人のうち、200万人が[[セネガル]]や[[コートジボワール]]など近隣諸国に脱出したといわれている<ref>勝俣誠「現代アフリカ入門」第1刷、1991年11月20日(岩波書店)p94</ref>。

また、自身と同じマリンケ族を優遇し、[[フラニ族]]など少数派を迫害した。そのため、さらに不満は増大し、[[1984年]]にトゥーレが[[心臓疾患]]により療養先の[[アメリカ合衆国]]・[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]で死亡すると、すぐさま軍の[[ランサナ・コンテ]]が蜂起し、無血で政権を奪取。コンテはただちに1000人の政治犯を解放した。
 
トゥーレは首都[[コナクリ]]の[[:w:Conakry Grand Mosque|コナクリグランドモスク]]内の霊廟に埋葬されている。
 
== 関連項目 ==