「フランソワ・マリー・ド・ロレーヌ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m Locust-of-abaddon がページ「フランソワ・マリー (リルボンヌ公)」を「フランソワ・マリー・ド・ロレーヌ」に移動しました: 家名を優先
編集の要約なし
1行目:
'''フランソワ・マリー・ド・ロレーヌ'''('''François Marie de Lorraine''', prince de Lillebonne, duc de Joyeuse, [[1624年]][[4月4日]] - [[1694年]][[1月19日]])は、[[フランス王国|フランス]]の貴族。[[リルボンヌ]]公および[[ジョワイユーズ]]公。エルブフ公[[シャルル2世 (エルブフ公)|シャルル2世]]とその妻で[[カトリーヌ・アンリエット・ド・ブルボン]]の間の四男として生まれた<ref name="Francis">{{cite web|url= http://www.genealogics.org/getperson.php?personID=I00010999&tree=LEO|title= François Marie de Lorraine, ''Prince de Lillebonne''|accessdate= 2010-03-05|last= van de Pas|first= Leo|work= Genealogics .org}}</ref>。母方の祖父母は[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]王と[[ガブリエル・デストレ]]である。エルブフ公[[シャルル3世 (エルブフ公)|シャルル3世]]、アルクール伯[[フランソワ・ルイ (アルク・ド・ロレル伯)|フランソワ・ルイ]]の弟。
 
[[ジュール・マザラン]][[枢機卿]]の指揮下にある騎兵連隊の大尉となり[[三十年戦争]]に従軍、[[1644年]]の[[リェイダの戦い]]に参加し、[[1645年]]の[[ネルトリンゲンの戦い (1645年)|ネルトリンゲンの戦い]]では負傷している。[[1658年]][[9月3日]]、母方の大叔父エストレ公[[フランソワ・アンニバル・デストレ]]の娘クリスティーヌと結婚したが、結婚後わずか3ヵ月で死別した。[[1660年]][[10月7日]]、同族の[[ロレーヌ公]][[シャルル4世 (ロレーヌ公)|シャルル4世]]の娘アンヌと再婚、シャルル4世から結婚の贈り物として[[ナンシー]]の邸宅オテル・ド・ボーヴォー(Hôtel de Beauvau)を与えられた。
7行目:
== 子女 ==
2番目の妻アンヌとの間に3男6女の9人の子女をもうけた。
*[[カーシャルル・フランソワフォン・ロトリンゲン|シャルル・フランソワ]](1661年 - 1702年) - コメルシー公
*[[ベアトリス・イエロニム・ド・ロレーヌ|ベアトリス・イエロニム]](1662年 - 1738年) - ルミルモン女子修道院長
*テレーズ(1663年 - 1671年)