「ラオスの歴史」の版間の差分

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その後、{{仮リンク|スワンナ・バンラン|de|Suvanna Ban Lang}}、{{仮リンク|ラーセンタイ・プワナート|de|La Sen Thai Puvanart}}が執政したが、プワナート王が死去した[[1495年]]は次期王位継承権のある{{仮リンク|ソムプー|en|Sompou}}は7歳という幼齢で叔父にあたる{{仮リンク|ウィスン・ナラート|en|Visunarat}}が実権を握った。ソムプーは9歳で即位するも3年後には死亡し、ウィスン・ナラートが王位を継承した。ウィスン・ナラートは[[1503年]]からウィスン・マハー・ウィハーン寺院の建立に着手し、マノーロム寺院に安置されていたプラバーン金仏像を同寺院へ移設させた。また、この次期には上座部仏教が大いに栄え、名僧と冠される人物も多数出現し、『[[三蔵経]]』の[[ラオ語]]訳や、[[テープ・ルアン]]による『クン・プロム伝説記』や『ターオ・フン物語』など文化的に大きな発展を遂げた。
 
ウィスン・ナラートの後は{{仮リンク|ポーティサラ・ラーサー|en|Photisarath}}が9歳で即位し、チェンマイ王国のヨート・カムティプ王女(Yot Kam Tip)を妻に迎えた。当時チェンマイ国王であったケット・クラウには男児が産まれず、ポーティサラ王の子が男児であった場合、チェンマイ王国の王位継承権を主張できる立場にあるとした。チェンマイ王国では{{仮リンク|ケット・チェッタラート|de|Ket Chettharat}}王(在位:[[1525年]]-[[1538年]], [[1543年]]-[[1545年]])が、[[1535年]]にMoen Soisamlanの反乱で失脚し、息子の{{仮リンク|タオ・チャイ|de|Thao Chai}}(在位:[[1538年]]-[[1543年]])が王となった。[[1543年]]にタオ・チャイが暗殺されると、Mueang Noiにいたケット・チェッタラートが再び復位したが、[[1545年]]にケット・チェッタラートも暗殺された。チェンマイ王国の派閥の領袖Khrao SaenがChiang Tungの王位を提供されたが拒否すると、Mueang Noiが介入したがKhrao Saenに暗殺された。<!-- その後[[1535年]]、チェンマイ王国において貴族セーンドゥによる謀反が起き、ケット・クラウ王が暗殺された。セーンドゥは自身の推すシャンの領主を国王に推挙しようとしたが、セーンドゥと対立した貴族ムンサラムーンがラーンサーン王国の王子を推挙したためチェンマイ王国を二分する争いとなった。この争いはヨート・カムティプ王女の働きによりムンサラムーン派が優勢となり、 -->女帝[[チラプラパー]](Chiraprapha or Jiraprabha(, 在位:[[1545年]]-[[1546年]]) (queen's reign)の即位。Chaiyachettha or Jayajestha(在位:[[1546年]]-[[1547年]])の即位。[[1548年]]、[[ラーンナー|ラーンナー王国]]の{{仮リンク|ポーティサラ・ラーサー|en|Photisarath}}の息子[[セーターティラート|セタティラート]](在位:[[1548年]]-[[1551年]])がチェンマイ王国の王位を継ぐ事で決着した。
 
[[1550年]]、ラーンサーン王国でポーティサラ・ラーサー王が象競技中の事故で死亡したため、ラーンサーン王国はチェンマイ王国に対しセタティラートの帰国要請された。要請を受け、セタティラート王はチェンマイ王国の王位を兼ねたままで執政をチラプラパー王妃に委任し、翌[[1551年]]にラーンサーン王国国王へ即位した。しかし、チェンマイ王国ではセタティラートに帰国の意思がないとして新しい国王を擁立する動きがはじまり、ナーンの領主であった{{仮リンク|メクティ|de|Mae Kut}}が即位した。このためセタティラートはチェンマイ王国へ軍隊を侵攻させたが、メクティの勢力を排除できなかった。こうした経緯でそれまで蜜月関係だったラーンサーン王国とチェンマイ王国は悪化していった。
 
[[File:Ayutthaya Thailand.jpg|thumb|left|150px|アユタヤ王国は絶頂期を迎える]]