「蜂須賀正氏」の版間の差分

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[[学習院]]初等科に入った頃から生物に著しい関心を示し、先輩の[[黒田長禮]]に出会ってから[[鳥類学]]に志す。[[1919年]]、[[学習院中等科]]在学中、[[日本鳥学会]]に参加。
 
[[1920年]]9月に渡英。[[1921年]]、父の母校[[ケンブリッジ大学]][[モードリン・カレッジ]]に入学。[[政治学]]を修めるという口実だったが、もっぱら鳥類の研究に没頭し、[[大英博物館]]や[[剥製]]店や古書店に通い詰める。さらに、銀行家で『絶滅鳥大図説』の著者である[[ウォルター・ロスチャイルド]][[男爵]]と親交を結ぶ。さらに、豊富な資金力に物を言わせて探検隊を結成し、[[アイスランド]]や[[モロッコ]]、[[アルジェリア]]、[[エジプト]]、[[コンゴ]]、[[南アメリカ|南米]]、[[東南アジア]]などを踏破。[[1928年]]、英国から一時帰国中に、有尾人を求めて[[フィリピン]]で[[熱帯雨林|ジャングル]]探検を決行。卒業論文は「鳳凰とは何か」で、伝説上の霊鳥[[鳳凰]]のモデルを、[[カンムリセイラン]]とした<ref>[[荒俣宏]]『大東亜科学奇譚』ちくま文庫、1996年</ref>。
 
[[1928年]]、[[渡瀬庄三郎]]と共に[[日本生物地理学会]]を設立。同年、東京帝国大学の松村瞭から依頼を受け、フィリピン探検で有尾人探索調査を行う。正氏が、マラリアに感染し、不首尾に終わる。東南アジアの島々で、生物相を調べていくうちに[[ウォーレス線]]と童謡の生物の構成が異なってくる境界を発見、有尾人への関心は以後薄れていく<ref>荒俣宏『荒俣宏の不思議歩記』毎日新聞社 2004年 p.12-14</ref>。