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{{基礎情報 中国君主
|名 =文穆王 銭元瓘
|代数 =2
|呼称 =王
|画像 =
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|在位期間 =[[932年]] - [[941年]]
|都城 =
|諱 =銭伝瓘→銭元瓘
|字 =明宝
|小字 =
|諡号 =文穆王
|廟号 =世宗
|生年 =[[光啓]]3年([[887年]]
|没年 =[[天福 (後晋)|天福]]6年([[941年]]
|父 =[[銭鏐|武粛王]]
|母 =
|皇后 =恭穆夫人</br>恭懿夫人</br>仁恵夫人
|陵墓 =
|年号 =
|年号 =[[長興]] : [[932年]] - [[933年]]</br>[[応順]] : [[934年]]</br>[[清泰]] : [[934年]] - [[936年]]</br>[[天福 (後晋)|天福]] : [[936年]] - [[941年]]
|注釈 =初め'''銭伝瓘'''と称した
}}
'''銭 元瓘'''(せん げんかん)は、[[五代十国時代|十国]][[呉越]]の第2代。武粛王[[銭鏐]]の七男
 
== 生涯 ==
[[902年]](天復 (唐)|天復]]2年([[902年]])、唐朝により鎮海節度使に任命された[[銭鏐]]であるが、京師に帰還すると人質の提供を求められた。他の嫡子兄弟がことごとく朝廷に向かうことを拒否する中、銭元瓘のみが人質となることを志願した。後に杭州に戻った銭元瓘は、成人後に呉越の軍勢を率いて各地を転戦するなどの武功を上げた。これらの活躍により、[[銭伝懿]]、[[銭伝リョウ|銭伝璙]]、[[銭伝璟]]らの諸兄に譲られる形で銭鏐武粛王の後継者となった。
 
[[932年宝正]]7年([[宝正932年]]7年)、銭鏐武粛王の薨去にともない銭元瓘が王位を継承しいだが王を名乗らなかった。この時に元瓘と改名している。[[933年長興]]4年([[長興933年]]4年)には後唐[[李嗣源|明宗]]より呉王に、翌年には呉越王に封じられている。また[[937年]]([[天福 (後晋)|天福]]2年([[937年]])には後唐に取って代わった[[後晋]][[石敬トウ|高祖]]により越王に封じられている。
 
天福6年([[941年]](天福6年、銭元瓘は薨去し諡号を穆王,廟号世宗を贈られ享年55。現在の[[浙江省]][[蕭山]]龍山南に埋葬された。
 
{{先代次代|[[呉越]]の王|第2代:932王|932年 - 941年|[[銭鏐|武粛王]]|[[銭弘佐|忠献王]]}}
 
{{Chinese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:せん けんかん}}
[[Category:銭氏|けんかん]]
[[Category:十国の君主]]
[[Category:呉越|けんかん]]
[[Category:銭氏|けんかん]]
[[Category:887年生]]
[[Category:941年没]]