「呉 (十国)」の版間の差分

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更に[[長江]]を遡って中流域をも抑え、一大勢力圏を築いた。その後、南下する[[朱全忠]](この時はまだ[[後梁]]を建てていない)と抗争し、[[淮河]]の線を確保し、[[浙江省|浙江]]に拠った[[呉越]]と[[蘇州市|蘇州]]を巡って争うが、これには敗北して蘇州は呉越のものとなった。これらの勢力を持って[[902年]]に唐より呉王に封ぜられる。楊行密は自立はしたもののあくまで唐の臣下としての立場を貫いており、死ぬまで唐の[[元号]]を用い続けた。
 
楊行密の力の源が群盗勢力や唐の残存兵を集めて編成した黒雲都(こくうんと)と呼ばれる親衛軍団である。この軍は全て黒い鎧をつけたことからこの名前がある。この軍を持って反対勢力の駆逐を行っていたが、しかしこの軍団に頼りすぎた結果、黒雲都の指揮官である[[徐温]](じょおん)と張{{Lang|zh|顥}}(ちょうこう、{{Lang|zh|顥}}は景編に頁)が実権を握るようになる。
 
[[905年]]に楊行密が死去すると、長男の[[楊渥]]が擁立される。この時期に江西[[藩鎮]]を倒して領域を南に広げ、[[楚 (十国)|楚]]からも顎州(現在の[[武漢]])・岳州([[岳陽市|岳陽]])を奪い、最大版図を実現する。しかし楊渥は完全な傀儡であり、傀儡であることを脱しようとしたために[[908年]]に[[暗殺]]され、弟の楊隆演が新たな傀儡として擁立される。